「赤ぶさー(赤髪)」「ヒージャーミー(ヤギの目)」「あいのこー」といじめられた。小学校で半紙に茶碗を伏せて「日の丸」の旗をこしらえた。友人と沿道に並んで復帰運動の行進団に「がんばれーっ」と旗を振っていると、通りかかった大人に「君は振らなくていいよ」と言われた。一瞬、意味がわからなかったが、間をおいて差別されたと知り、全身がカーッと熱くなる。「なんで僕がよ。同じウチナーンチュだよ」と悔しかった。

 打ちのめされた少年を救ったのは、育ての母のまっとうな人間観だった。「トゥーヌイービヤ、ユヌタキヤネーラン(10本の指は同じ長さじゃない。十人十色でいいんだよ)」「カーギェーカワドゥヤンドー、カワティーチハガセーラ、ムルユヌムンヤンドー(風貌は皮一枚でしかない。皮をはがせば、誰も違わないよ)」とウチナーグチで切々とデニーに語りかけた。荒(すさ)みそうな心に小さな命綱ができる。腕白(わんぱく)小僧デニーに明るさが戻った。

 デニーが小4に上がると母が与那城に帰り、一緒に暮らし始めた。母は、息子の名をデニスから「康裕」に改めて家庭裁判所に届け出る。デニーが父親の消息を訊ねても「もう忘れたよー」と語らなかった。「ただ一つ教えてくれたのがファーストネームでした」とデニーは振り返る。瞼の父の手がかりは、ファーストネームだけだった。

 ■水が合わずに職を転々、ラジオDJですぐに人気が

 思春期に入ってデニーはポピュラー音楽に目覚め、高校でハードロックにどっぷりつかった。先輩のバンドをまねて、ディープ・パープルやブラック・サバスの曲を演奏し、ボーカルを担当する。ロックの牙城(がじょう)、コザ(現・沖縄市)のホールでシャウトした。

 沖縄のロックシーンは筋金入りである。ベトナム戦争中は、戦場で人を殺した兵隊が大麻を吸ってフラッシュバックし、ステージに突っ込んできた。演奏がつまらないと中身の入ったビール瓶を投げつけられ、灰皿が乱れ飛ぶ。プレーも命がけだ。そこから「紫」や「コンディショングリーン」「マリー・ウィズ・メデューサ」といった名バンドが現れる。デニーは彼らに導かれてステージに上った。ただ、プロを目指そうとは思わなかった。

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飛躍へつながる「いばらの道」