■沖縄市長選出馬の報道、筋が通らないと出馬せず

 だが、運命の糸は奇妙に絡まる。2002年1月、知人が「春の沖縄市長選に出馬しないか」と持ちかけてきた。「いやいや政治や選挙はわからん」と答えると「出るか出ないかは後で決めればいいから、いろんな人に相談したほうがいい」と助言された。家族は反対だった。智恵子は基地撤去が持論で、夜ごと缶ビール片手にデニーと福祉や教育、人権について激論を戦わせるが、それとこれとは別だ。政治の前面に立てば、平穏な生活は守れない。選挙は賭けである。負けたら目も当てられない。働く母親、妻として異を唱えた。デニーは琉球放送の役員に「出馬の誘いがあったけど出る気はありません」と報告する。役員も「急な話だなぁ」と笑い話で終わった、はずだった。

 ところが、だ。翌日の新聞に「玉城デニー氏、沖縄市長選出馬」と記事が載った。デニーはびっくり仰天、腰を抜かす。ラジオ番組の収録日だった。放送局に行くと、社員の血走った視線が突き刺さる。前日、面談した役員に会おうとしても拒絶され、収録直前、ディレクターに宣告された。

「本日をもって降板してください」

 茫然自失、涙があふれる。担ぎ出しを画策した知人に「外堀を埋めて、俺を引っ張り出そうなんて絶対に認めない。筋が通らん。市長選には出ない」と言い渡す。記事は大誤報と化した。

 この記事を書いたのは、当時、沖縄タイムス中部支局に配属されていた屋良朝博(やら・ともひろ)(57・現衆議院議員)だった。屋良が回想する。

「もちろん取材を重ね、確信を持って書きました。形勢もよかった。デニーさんも出る気だったと思うけど、あそこで断ったのは彼の優しさ、身内の『和』を大事にする意識だと思います」

 結果的に大誤報がデニーの背中を押す。改めて人生を振り返り、政治への熱情が沸々とたぎった。政治問題や政治家の本を貪(むさぼ)るように読む。その年の9月、沖縄市議会議員選挙が予定されていた。デニーは智恵子に決然と告げた。

「市議選に立つ。もう決めた。ゼロから政治の世界でやっていく。市長選のときのように出たら離婚というのなら、どうぞ離婚してください。僕の前から立ち去ってください」

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