都会と隔絶された飛騨の山中で1カ月、倉田が教鞭を執っていた法政大学の学生や、岡のように「建築を諦めきれない」社会人ら20~30人が起居をともにし、各人が考え抜いた構造物の製作に汗を流した。それは四角い鉄骨の骨組みだけの立方体だったり、古代遺跡のようにグニャグニャした鉄筋コンクリートだったり、説明のつかないようなものも多かったが、豊かな自然に抱かれながら肉体作業に没頭すると、自分が建築そのものになったような心地がした。


 
■1年間の建築禁止令、即興での踊りに夢中に

 岡は88年以降、毎夏高山を訪れた。そして建築現場の本当の職人の仕事を理解するために、山を下りると土工や鳶職、鉄筋工や型枠大工の仕事に精を出し、セルフビルダーとしての力量を高めていった。2000年に倉田が亡くなると、高山建築学校は瓦解(がかい)しかけたが、岡の執念で毎夏の開校は続いている。

 建築一色のように見えて、岡はダンサーとして活躍したこともある。あまりの建築オタクぶりに視野の狭くなることを危惧した倉田に90年夏、1年間の建築禁止を命令されたからだった。途方に暮れた岡に、高山で知り合った彫刻家が「1年間ヒマなら踊りをやってみない」と紹介してくれたのが、舞踏家の和栗由紀夫(1952~2017)だった。舞踏の創始者、土方巽(1928~86)の弟子の一人として知られた和栗に徹底的に鍛えられた岡は、踊りに夢中になった。場を読みながら即興で語り合うように無心に跳び、舞う。岡の踊りは、土方と並ぶ舞踏界のレジェンド、大野一雄(1906~2010)にも絶賛されるほどだった。体を思い切り動かす快感を20歳を過ぎて初めて知った岡は、「建築禁止令」が解けた後も機会があれば踊ることをやめなかった。

 父の昭寿が57歳の若さで亡くなったのも、踊りに熱中していた92年のことだった。福岡県議選に出馬して敗れ、労組の専従に戻っていた父は、時代の流れに取り残されて抜け殻のようになっていた。80年代末にベルリンの壁が壊され、ソ連が崩壊するなど社会主義政権がドミノ倒しのように瓦解し、中国では天安門事件が起こり民衆蜂起を人民軍が鎮圧した。

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