「父は中国共産党を信頼していましたから、民衆に刃を向けたことがショックだったのでしょう。それから政治と距離を置き始め、少しずつ元気をなくしていった。脳卒中で倒れて一度は退院したんだけど、医者も最後『普通なら目を覚ましていいはずなのに、この人は起きようとしない』みたいな言い方をしていました。消え入りたかったんでしょうね」


 
■再開発で建設ストップ、交渉重ね「曳家」で保存へ

 東京に戻った岡は、職人仕事の傍ら、友人や知人に頼まれて小屋や店を作ったり、修繕したりする「岡土建」を旗揚げした。95年4月には、当時住んでいた高円寺のワンルームマンションの窓をギャラリーにして様々な展示をする「岡画郎」を開いてちょっとした名所に育て上げた。「画廊」じゃないのは、「住居をギャラリーにされたら困る」と文句を言いにきた大家に、「岡画郎」という名前の表札を掲げているだけだと煙に巻くための、単なる小理屈だった。

 毎週土曜の夜、誰が参加してもいい定例会を開き、その場に居合わせたメンバーで今後の展示内容を決めた。来るものは拒まず、不特定多数による共同制作を目指すがゆえに、次第にグダグダになって03年に「閉郎」するが、ここには様々な人が出入りし、巣立っていった。34歳で司法試験に合格し、弁護士になった丸山冬子(44)もそんな一人だ。北海道旭川市から上京、専門学校を経て事務仕事をしていた20歳のころ、通りがかりに見つけた「岡画郎」に吸い込まれ、人生が大きく変わった。

「先鋭的でセンスに溢れた人たちが集まっていて、ああ東京ってこんな人たちがいるんだなあと感じさせてくれた。誰もその可能性を否定したり笑ったりしない。だから28歳で大学の法学部に入ることができた。特に岡さんに励まされ、背中を押されました」

 そう振り返る丸山は都内でキャリアを重ねた後、この夏に故郷で法律事務所を開業した。

 99年に結婚した妻も、「岡画郎」で出会った。そして、妻の放った一言が、蟻鱒鳶ルを建設するきっかけになった。

「私たちが住む家、つくってよ」

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