■22歳で武者修行の旅、名建築とテントで添い寝

 岡がこう発想して安心するには理由があった。父の昭寿は九州電力労働組合の専従になり、旧社会党から出馬して筑後市議会議員を3期務めた政治家だった。貧しい農家に生まれ、工業高校卒で九電に入社し、電気料金の督促に行っては自分の給料袋をそのまま置いて帰ってくるような愚直な正義感に溢れた男は、政治に生き甲斐を見いだした。その父は幼い岡を膝に乗せ、支持者や友人らと議論を深めながら杯を重ねるのが常だった。

「世の中には真理があり、それに向かってみんな一生懸命努力するのが正しい生き方なんだ。議論は大体そんなところに行き着くので、僕も漠然とそうなんだろうなと思っていました。ところがゲーデルがそうでないと数学的に証明したことを知って、すごい希望を感じたんです。だって悩んでる若者に『そんなこと○○さんが×年前に答えを見つけてますよ』なんてことが続いたら、まあつまらない世の中になるじゃないですか」

 建築と人生哲学の基礎を学んだ高専を卒業して住宅メーカーに就職、設計の腕を磨いたが、22歳で退職した。図面のうまい「建築設計士」にはなれても、人の心を震わせるような「建築家」にはなれないと悟ったからだ。岡は、ここから建築武者修行を始める。日本全国の名建築を地図上に落とし込んで、スケッチブックとテントを背負って、自転車で全国を回った。鳥取県三朝(みささ)町の三徳山三佛寺奥院投入堂、奈良県の法隆寺、沖縄県の今帰仁村中央公民館。日中は建築を描き、夜は脇にテントを張って建築と添い寝する。初めて旅に出た1988年は半年以上、それ以降も30歳ごろまで毎年2カ月ぐらいは自転車での建築巡礼を続け、細胞の隅々に名建築を溶かし込んでいった。

 岡がおそらく生涯関わることになる高山建築学校とも、この旅で出合った。岐阜県飛騨市の北アルプスの高原に72年、セルフビルド(自力建築)の普及を提唱していた建築家の倉田康男が開いた夏季開講の私塾で、気鋭の建築家だけでなく哲学者や思想家、芸術家を講師に招くことでも知られていた。高度成長時代を迎え、都市空間に巨大で無機質な建築物を粗製乱造することで建築が失った、創造する悦びを取り戻す。倉田の掲げた思想と、高山での日々は、岡が住宅メーカーの社員時代に抱いた違和感を根こそぎ払拭した。

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