強烈な母だった。生命保険のセールスレディーをして家計を支えていたかと思うと、水野の高校時代にはスナック「ろくでなし」を開店。人が驚くほどのカラオケの腕前もあって、店は繁盛した。息子を厳しく育てたことをマリ子自身、認める。

「世界一、可愛かった。世界一、愛していますよ。でも、自分が愛するだけじゃなく、世の中のみんなに愛される子どもにしたかった。それが母親の責任だと思っていました。あの子のためを思って、箸の上げ下ろしから態度まで厳しくしたんです」

 一方で、愛情もたっぷり注いだ。幼い頃から毎日のように海に連れて行った。動物が好きだとわかると、週に何度も上野の動物園に連れて行った。学校を休ませ、東京ディズニーランドに行ったこともある。そんな息子が危機にさらされたのは、小学5年のとき。交通事故に遭う。マリ子は言う。

「靱帯(じんたい)がぐしゃぐしゃになって、歩けなくなるかもしれないと言われて。その晩、北海道から九州まで全国の病院に必死で電話をかけました」

 東神奈川にいい病院が見つかり、歩けるようになったが、水野は2カ月の長期入院を余儀なくされた。好きな運動もできない中、絵を描くことの得意さを再認識するきっかけになった。一方で、松葉杖をついて学校に戻るとイジメに遭う。中学に入ると、ナメられたくないと横道に逸(そ)れた。勉強もしなくなり、進学校への受験はあきらめた。

 水野の心の救いは、学区内で一番の進学校に通い、音楽や本の趣味も大人びていた中学の同級生だった。高校は違ったが、毎日のように会った。

「何のために生きるのか。何のために働くのか、勉強するのか。彼がよく言っていたのは、とりあえず、で生きるのは嫌だ、と。彼に会わなかったら、もっと違った人生だったと思います」

■忙しすぎて25歳で失業、毎日もやしを炒めた

 進路を選択する時期が来た。水野は得意な美術を生かし、デザイン方面に行くことを決める。

「それで美大受験のための予備校に通ったんですが、ここで気づいたんです。もしかしたら、これはジャンピングチャンスじゃないか、と」

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