都内の自宅から東京都小平市のNCNPまで電車で通っている。通勤の流れと逆の車内は空いていて、座って大量のメールを読み、返信をする。オフィスに入ったら、もう臨戦態勢。後進の医師教育も忙しい(撮影/山本友来)
都内の自宅から東京都小平市のNCNPまで電車で通っている。通勤の流れと逆の車内は空いていて、座って大量のメールを読み、返信をする。オフィスに入ったら、もう臨戦態勢。後進の医師教育も忙しい(撮影/山本友来)

■じゃんけんで負けたため、依存症専門の病院

 1980年代初頭、松本少年が通う神奈川県小田原市の公立中学では校内暴力の嵐が吹き荒れた。教室の窓ガラスや壁は、いつもどこかが壊され、トイレにはシンナーやたばこのにおいが充満する。生徒が教師を殴る事件が起き、警察官が暴れる生徒を羽交い締めにしてパトカーに押し込む。その荒れた中学で松本は生徒会の役員を務めた。

 後年、当時の心境を次のように書き綴っている。

「私が嫌だったのは、教師と不良グループの生徒たちの乱闘騒ぎだった。立場上、私たちはそれを止めに入らなければならないが、たいてい、教師も生徒も極度な興奮状態にあり、しばしば双方の『流れ拳』を受けるはめになった。(略)ある時期から私は、学校で乱闘が始まったのを察知すると、さりげなくトイレの個室へと雲隠れするようにしていた」(「月刊みすず」2018年5月号)

 松本は一刻も早く中学を卒業したかった。高校は地元の進学校に入り、1年浪人して国立の佐賀医科大学(現・佐賀大学医学部)に進んだ。ほとんど大学には行かず、本と映画と演劇の日々を送る。病棟実習が始まる5年次に教養のドイツ語の試験を受けたというから、授業に出なかったのは本当だろう。最後の2年間で猛勉強をして医師国家試験に合格。佐賀を離れ、神奈川の横浜市立大学医学部附属病院に研修医で入った。

 医師になって5年目、大学医局の関連病院で、アルコールや薬物の依存症が専門の「せりがや病院(現・神奈川県立精神医療センター)」に医師の欠員が出た。医局が補充しなくてはならない。ところが、手のかかる依存症は不人気で、誰も応じず、「じゃんけん」で負けた松本が「1年だけ泣いてくれ」と上役に頼まれて赴任した。

 依存症の最前線に立った松本は、「何だ、これは。またここ。この世界なの」と愕然とする。夜回りの教師が病院に連れてくる少年、少女は中学時代の不良とそっくりだった。ヤンキーのファッションも価値観も変わっていない。そのころは、戦後の第1次、暴力団が覚醒剤を資金源にした80年代の第2次に続く、第3次覚醒剤乱用期。静脈注射に加えて粉末を火で炙って煙を吸う「アブリ」が若年層に広まっていた。松本がふり返る。

「依存症患者にアルコールや薬物を拒ませる治療薬はありません。薬の処方以外に何ができるか、死に物狂いで考え、援助の引き出しを増やしました。海外に比べて薬物が蔓延していない日本で10代からそれに手を出すのはよほどの理由がある。どこにも居場所がなく、自分はこの世にいていいんだろうか、と悩む者どうしが出会ってシンナー、クスリで絆を深める。恋愛は互いのイニシャルを体に彫るような息苦しいものになるんです」

 中学時代の嫌な記憶が、ブーメランのように医療的な問いをはらんでかえってきた。

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