シンポジウムでの語り口は軽妙だ。依存症への偏見・差別・排除をなくすためには、「薬物依存症対策基本法」のような理念法が必要と説く(撮影/山本友来)
シンポジウムでの語り口は軽妙だ。依存症への偏見・差別・排除をなくすためには、「薬物依存症対策基本法」のような理念法が必要と説く(撮影/山本友来)

■尿検査で陽性反応の場合、通報か守秘義務か

 松本は、患者のカルテを精査して症例を分析し、特性を抽出して新たな知見を加えて論文をまとめた。その論文が、先達の精神科医、村上優(現・国立病院機構さいがた医療センター院長特任補佐)の目に留まる。74年に九州大学医学部を卒業した村上は、アルコールを中心とする依存症の治療を開拓してきた。村上は厚生労働省の委託研究班に松本を招き入れる。村上が回想する。

「思春期の患者は、融合と衝動の葛藤をはらんでいます。融合でベターッと仲間とくっつくかと思えば、衝動で自殺する。その特性を踏まえてどうするか。松本さんは探究心旺盛だった。僕らは、とにかく患者さんにいつでも戻っておいで、と関係を切らない。通っている間に本人に変わるきっかけをつかんでもらう。でも、僕らは少数派、珍しかったんだ。よそは閉鎖病棟に入れたり、大量の向精神薬でおとなしくさせたりしていたね」

 松本の研究内容は英国の医学雑誌に掲載され、博士号、学位論文へと昇華した。松本は、せりがや病院から横浜市大医学部医局に戻り、さらにNCNPに移る。個人史的には神奈川の地方区から全国区へ順調にステップアップしたかにみえる。

 だが、薬物依存症を犯罪とみなす社会通念は岩盤のように硬く、厚かった。「禁止薬物の依存症は犯罪だから医療の問題ではない」と主張する精神科医がいた。いや、いまでもかなりいる。

 有名な都立の精神科病院では、新任院長が覚醒剤の尿検査で陽性反応が出た患者は全員警察に通報すると方針を掲げた。治療の守秘を重んじる依存症専門医は、これに反発し、全員退職したという。現場の判断は病気と犯罪の間で揺れ動く。

 はたして病院にすがる薬物依存症患者を医師が警察に通報するのは妥当なのか、それとも誤りか。

 覚醒剤に絞って考えてみよう。刑法134条は、医師、薬剤師、助産師らに正当な理由がない限り患者の秘密を漏らしてはならない、と守秘義務を課している。覚醒剤取締法には、医師の捜査機関への通報に関する規定はない。

 一方、刑事訴訟法239条は、公務員が職務を通して犯罪があると思料するときは、告発しなければならない、と通報を義務づける。最高裁05年7月19日判決は、患者の尿から違法な薬物成分が検出された場合、医師が捜査機関に通報することは許容され、守秘義務に違反しない、と示した。

 しかし松本は「守秘義務のほうが重い」と説く。

「患者さんの尿、検体の所有権は厳密には本人にある。調べるのは治療のため。通報に利用したら目的外使用でしょ。刑法の守秘義務のほうが手続き法である刑訴法の公務員の告発義務より重い。たとえ公務員医師でも、その人の本分は医療だから守秘義務が優先されます。医師は『白衣を着た捜査官』じゃない。海外の精神科医は、医師が通報するなんて、おまえの国は正気か、と驚きます」

 世界の主流は刑罰より治療の優先だ。松本は臨床と研究で奮闘し、岩盤のような社会通念に挑んだ。事態が動くのは16年、再犯防止推進法の施行がきっかけだった。近年、元受刑者の再犯率が高まり、社会復帰が困難になっている。とくに覚醒剤の乱用は、初犯で約6割、50歳以上では84%の再犯率といわれる。同じ人が何度も捕まり、刑務所に入るけれど回復せず、また捕まる。

 同法は「薬物依存症の人への適切な保健医療や福祉サービスの支援」の閣議決定を義務づけた。18年には薬物犯罪の捜査に力を注いできた厚労省に「依存症対策推進室」が新設される。

 そして今年3月、厚労省の啓発イベントで画期的なシーンが展開された。対談セッションのホスト役だった松本は、何の前触れもなく、16年に覚醒剤取締法違反で有罪判決を受けた元プロ野球選手の清原和博をゲストに迎えたのである。法を犯した人が国のイベントに登壇するのは前代未聞だった。清原は専門的治療を受け、断薬を続けている。松本は「(治療に至る過程で)つらい時期はありました?」と問いかけた。

 清原は、ひと言ずつ噛みしめるように語りだす。

「そうですね。2週に1回、病院に通って、テキストを勉強し、薬物について勉強し、そうすることでどんどん自分はこうだったんだ、ああだったんだと理解できて、すごくよかったと思います」

「自分の体験なんですが、薬物というものは一時的にやめられても、やめ続けることは自分自身では難しいことだと思います。勇気を出してですね、専門の病院に行ってほしいなと思います」

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