それ以降、WEBマガジンを創刊、それによって読者の関心が、当事者の声であることがわかり、紙面の変更を試みた。そうした変革の結果、現在3500部を誇る。松本が振り返る。

「石井さんは崖っぷちにいるのに、明るかったのが印象的でした。研修が始まった頃は、あいた時間があると3人でゲームをするなど、学生サークル的な雰囲気でしたが、新聞が切羽詰まった状況で危機感が高まり、ここ一番で集中力を発揮してくれた。ゼミ生ならば“A”をあげたいです」

 夏のある休日、石井が住む埼玉県の団地を訪ねた。1LDKの部屋。ベッドサイドにゲーム用のモニターがあり、家にいる時間のほとんどをそこで過ごすという。料理上手な石井がランチを手際よく妻のためにつくっている。その日はカルボナーラ。できあいのソースではなくシメジやセロリでつくる。豊かな日常がそこにはあった。

 給料は安く、車もなく、子どももいないけれど、引け目はないという。人と比較しない生き方は不登校時代に自分と向き合って身に付けたからだ。

 石井が不登校になった頃、二十数年後にこんな穏やかな日常があるとは思えなかっただろう。

「学校だけが生きる道じゃないし、不登校になったからって人生が終わるわけではない。だからどうか生きてほしい」

 (文中敬称略)

■いしい・しこう
1982年 東京都町田市に長男として生まれる。妹が1人。父親は設計士。
  91年 小学校4年の頃は、地元の野球チームに所属。夏休みにあまり勉強しないので、塾で勉強するようになる。
  92年 小学5年から学習塾に本格的に通い始めるが偏差値50から伸び悩む。「偏差値50未満の人たちには人生はない」と塾で言われる。
  93年 ストレスから万引きをするようになり、家に帰らず街をうろつく行動も目立ち始める。
  94年 私立中学を6校受験。すべてに不合格。公立中学に入学。生徒会活動を始める。
  95年 中学2年になり成績が下がり、再び塾通い開始。12月、不登校になる。
  96年 2月、東京シューレに入会。
  98年 不登校新聞が創刊し、東京シューレの中に編集部が設置される。
  99年 不登校新聞ボランティア記者になる。「子ども若者編集部」に参加。
2000年 フリースクールの国際会議IDECが東京で開催された時、子ども実行委員として関わる。その手際よい働きぶりを見た母親が喜ぶ。
  01年 全国不登校新聞社に正社員として就職
  06年 不登校新聞編集長に就任。
  10年 千葉ロッテマリーンズが日本一に。家で1人ビールかけ。
  12年 休刊危機を迎える。休刊危機を訴える号外を出す。助成金を受けていたパナソニックからNPO法人を支援するマーケティングプログラムに参加することを提案される。9月、採算ライン突破。休刊回避。
  13年 東京シューレで教員をしていた三喜子と結婚
  15年 9月1日前後に、18歳以下の子どもの自殺者が多いことを記事にする。一般メディアにも報道してもらうため、文部科学省で記者会見を開く。
  18年 全国不登校新聞社編集の『学校に行きたくない君へ』発行。
  19年 編集部を東京シューレ内から独立して移転。不登校新聞にも登場した故・樹木希林の長女、内田也哉子が『9月1日 母からのバトン』を樹木との共著という形で出版。石井も対談相手として登場する。
 ※「不登校新聞」は一時期「Fonte」と紙名変更したが本欄では「不登校新聞」に統一

■西所正道 
1961年、奈良県生まれ。著書に『五輪の十字架』『「上海東亜同文書院」風雲録』ほか。本欄では「分子生物学者・福岡伸一」「ロボットコミュニケーター・吉藤健太朗」などを執筆。

AERA 2019年9月2日号

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