6月9日、名古屋市で開かれたシンポジウムに出席。基本的に明るく話すので、不登校の子どもがいる親たちの表情もやわらぐ。終了後、石井に個人的に相談を持ちかける人も。椙山女学園大学で
6月9日、名古屋市で開かれたシンポジウムに出席。基本的に明るく話すので、不登校の子どもがいる親たちの表情もやわらぐ。終了後、石井に個人的に相談を持ちかける人も。椙山女学園大学で

■偏差値50未満に人生ない ストレスから万引きを

 文科省は年間30日以上欠席した場合を不登校と定めているが、同省の調査では、不登校の小中学生は約14万4千人(17年度)で、20年間で1・5倍増加。日本財団の調査(18年)によると、中学生の1割は不登校傾向があるという。石井もかつて不登校の当事者だった――。
 
 石井は82年、東京都町田市で生まれた。神戸連続児童殺傷事件の“酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)”、西鉄バスジャック事件や秋葉原通り魔事件の加害者は同い年。

「事件が起きるたび“心の闇”と騒がれましたね。しかもロスジェネ世代。雇用も含めて将来が保証されないことが前提になった世代です」

 そんな石井の前に「東京大学への道」が一瞬見えたときがあった。小学5年のことだ。前年の夏休みに勉強しない息子を心配した母親が学習塾に通わせたのだ。中学受験はあまり頭になかったが、数カ月で思いのほか成績が伸びた。塾には東大入学者もいて、未来の自分がその中にいるかもしれないと思えた。だが偏差値50から伸び悩む。当時、塾のベテラン講師が、成績順に並べられた席順の偏差値50ラインに手を広げて、こう言った。

「偏差値50未満の人たちに人生はないんだ」

 石井の心に不安と言いしれぬ恐怖が植え付けられた。ストレスから万引きが始まる。小・中学校時代の友人・西村博行によれば、「学校ではひょうきんで楽しい雰囲気だった」。しかし受験日が近づいているのに偏差値が徐々に後退し始めると、踏切で線路に吸い寄せられそうになった。

 6校を受験。すべて落ちた。

 「人生が終わった」と思った。母親は叱りはしなかったが、一言「私立に行った子を見返すつもりで頑張れば大丈夫」。プレッシャーだった。
 
 地元の公立中学校に入学。目に入ってきたのが校則だった。制服の着方、靴下だけでなく下着まで白と強制する校則はおかしいと思い、生徒会に入り、校則を変える活動に加わる。教室でも校則について不満を口にしては教師に怒鳴られた。

「あれだけ校則に執着したのは、いま思うとそうし続けなければ受験に失敗した自分を思い出して、つらくなるからだったような気がします」

 生徒は荒れていた。スクールカースト(教室内序列)やいじめはもちろん、障害を持つ生徒を階段から蹴り飛ばす暴力も目にした。許せなかったのは、そうした生徒の混乱や命に関わる暴力を指導しないで、細かな校則にはこだわる教師の姿だった。それでも学校には休まず行っていた。大好きな桑田佳祐の曲を目覚まし代わりにかけながら。

<暗い教室の隅で彼は泣いてる 重い十字架を生きるために抱いてる あらぬ良識で大人達は逃げてる>(「飛べないモスキート」)

 決定的だったのは中学2年のときに起きた万引き問題の取り調べ。万引きが同級生のいくつかのグループで流行し、石井も受験後おさまっていたが、ストレスで再燃していたのだ。疑いのある十数人が1人ずつ部屋に呼ばれて万引きした生徒の名前を教師に言わされた。万引きは反省すべき行為だが、“裏切り”を強要され傷ついた生徒の心は一層すさんでいった。その雰囲気に耐えられず、石井は授業を友人とサボり逃亡。ほどなく見つかり校長室で説教をくらう。帰宅後もかつてないほど泣く息子に母親は聞いた。「大丈夫? 明日どうする?」と。答えは「(学校に)行けない」。

「そう言った瞬間、感情が堰を切ったように溢れだして号泣しました。それまでは学校へ行くのは絶対と思っていたので我慢していました。でも苦しかったんですね。自分でも気付かなかったです」

 12月半ば以降、石井が登校することはなかった。母親も石井本人も、学校のレールから外れたことが不安だったのだろう。たまたま来た訪問販売員が勧める20万円もする学習教材を買っている。

 だが石井は、ここしかないという学校を決めていた。フリースクールだ。中学2年の1学期、偶然書店で見つけて読んだ『学校は必要か』の著者、奥地圭子(78)が設立した東京シューレである。

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