■吉本隆明をよく知らず、4時間半家で話し込む
保護者対象のスクール見学会に母親が出かけた。だが家に帰るなりバッグを部屋に投げつけていた。一般の学校のような勉強はしないという理解を超えた環境、東大への道が見えて以降の劇的な変化に耐えられなかったのだろうと石井は思った。
一方の石井は不安もあったが、翌年2月に東京シューレに入会し、体の中に希望が甦ってきた。スタッフに靴下や下着が白の校則のことを話すと、「おかしいよね」と即座に同意してくれ、「金髪だっていい」とも言う。石井は嬉しかった。
「やっと、まともな人間に会えた」
東京シューレで面白かったのは、子どもが勉強したいことを企画し、プレゼンし、議論して決めていくスタイルだった。石井はその過程が好きで、「交差点で棒を倒し転がった方向に行ったらどこに行くか」などの企画を出しては楽しんだ。
奥地によれば、石井が著しい成長を見せたのは00年、フリースクールの国際会議IDECを東京で開催したときだという。約30カ国の関係者が来日した3千人規模の会議を、大人スタッフとともに仕切る子ども実行委員の一人として石井は頭角を現していた。18歳のときだ。奥地は言う。
「企画力もあるし対外的な折衝力もある。それに話もうまいので、通訳の力を借りて会議をスムーズに運営してくれた。石井君はシューレに来て、自分の力を発揮して豊かな経験をしたと思います」
石井は、中学2年以降、いわゆる学校には一切行っていないが、学びの場としてあげるのは、一つは東京シューレ、もう一つはシューレの建物の中に編集部があった不登校新聞だ。なかでも「子ども若者編集部」は、不登校やひきこもりの当事者、体験者で構成される独自の編集部隊。大人の編集部員も手伝うが、企画は当事者たちが考えて取材にも行く。石井が刺激を受けたのは、会いたい人に連絡を取り、取材するページだった。
「ひきこもれ」という内容の論考を書いた故・吉本隆明が著名な思想家であることを知らずに、4時間半も家に上がり込んで話を聞き、糸井重里への取材では、帰り際「きょうは面白かった」と声をかけられた。自分と話して、糸井がそう思ってくれたことに「生きててよかった」と感激した。
「自分のアイデンティティーは不登校を経験したこと。不登校新聞はそれを生かして取材できる数少ない媒体です。これを仕事にしていきたかった」
翌01年、石井は19歳のとき、不登校新聞の正社員記者になる。子ども若者編集部で多くを学んだ石井は、後輩の面倒見もよかった。
たとえば中学2年以降10年もひきこもっていた名古屋市在住の鬼頭信(しん)(31)。原因はいじめで、「他人が怖い」と思うようになった。映画監督の押井守と話したい一心で取材に参加したのだが、なにしろ両親と祖母以外と話すのは1年ぶりだった。