芸術志向の強かった青木は小説家か映画監督になることを夢見ていたが、何度挑戦しても小説がうまく書けないのが悩みだった。文学部に進もうと東大文IIIを受験するも、浪人。翌年は建築科への進学者が多い理Iに方向転換し、合格する。中学でガウディに惹かれた青木が、いよいよ建築の世界に足を踏み入れたのである。
建築科に進む学生のうち、実際に建築設計に進むのはごくわずかで、大多数はゼネコンの技術者や大学の研究者になる。しかし青木は最初から建築設計の仕事しか考えていなかった。
「架空のプロジェクトに対してアイデアを考える。それが『食べなくていい、眠らなくていい』と思うほど楽しかった。授業に行くより設計をやっていたかったですね」
ここで青木は、すでに大家として知られていた磯崎新(87)と出会う。大学院を終えると、磯崎新アトリエに入った。磯崎は若い頃、美術評論家であり詩人であり画家であり、若手のアーティストを支援したことで知られる瀧口修造のグループの一員で、著作でも高く評価されていた。
「グループにいた建築家は磯崎さんだけ。建築って意外に美術と縁遠いんです。美術館の空間はどうあるべきなのか、きちんと考えている建築家は少ないと思う。磯崎さんは展示室を重視した数少ない建築家です。たいていの建築家はロビーをデザインするのが好き(笑)。本来なら展示室こそが大事なのに」
全国にある美術館や博物館はその地域を象徴する建築であり、青木が新潟県の潟博物館や青森県立美術館を代表作としてあげているように、建築家にとっても重要な作品になることが多い。それでも建築家は美術と縁遠いものなのか。
●デザインの世界から見て常識的なことを守らない
磯崎のもとで手がけたのが美術館やコンサートホール、劇場を備えた水戸芸術館の仕事だった。館長は憧れの人、吉田秀和である。青木が磯崎のコンセプトに従って設計図を描き、それに磯崎が手を入れていく。美術・音楽・演劇が好きだった青木にとって、この仕事に関われたことは喜びだった。工事が始まると現場にも通い続けた。
建築家の門脇耕三(41)は、
「あの優しい文学青年が、少しの狂いも許されない水戸芸術館の現場で、現場監督や職人さんを統制する仕事をよくやり遂げたと思います」
と言う。水戸芸術館の完成を見届け、91年に独立。青木淳建築計画事務所を設立した。77年生まれの門脇が建築を学ぶ学生だった頃、青木は若い世代のヒーローだった。
「青木さんが磯崎さんのところで修業されていた頃は日本中にキラキラしたものがあふれていましたが、馬見原橋は日常と地続きのところがあります。でも、あの橋は建築雑誌で大御所たちからけちょんけちょんに言われたんですよ。『ディテールがなってない』とか『仕上げがなってない』とか。飾り立てた精巧な建築を作ってきた人たちからすれば、こんなものは建築ではないということになる。それがかえって下の世代を引きつけたんだと思います」(門脇)
バブルは崩壊し、キラキラしたものは輝きを失いつつあった。バブルの恩恵を味わった世代はともかく、若手の多くは、日常にこそ建築家が腕をふるう大切なものがあると感じていた。
青森県立美術館も日常性の中にある。縄文時代の三内丸山遺跡に隣接する広大な丘陵に立つと、津軽平野の空の大きさに胸が晴れ晴れとする。そこにある建物は丈低く横に広がっていて、屹立する感じは一切ない。空を損なわない建築とでも言おうか。壁面には煉瓦が張られ、「昔からあった小学校やガレージみたいに見えるように」(青木)白く塗られていた。冬になれば積もった雪に溶け込んでしまうだろう。
この美術館は、縄文遺跡の発掘現場にあったお堀のような溝の凹凸の上に、煉瓦の塊でできた凹凸をかぶせる構造になっており、入り口はいくつもある上、ロビーらしいものが存在しない。エレベーターを降りて最初に入った展示室は縦横21メートル、高さが19メートル。シャガールのバレエ《アレコ》に使われた巨大な舞台背景画4面を人々が見上げていた。そのスケール感は国内の美術館ではめったに見られないものだ。
館内は、思いがけない場所につながる広がりを持った空間となっていた。展示室はもちろん、廊下や、地下室を囲むように作られたドライエリアを歩いていると、小さな街を探索しているかのような錯覚がある(ここにも「道」があった!)。日が差し込み、心地良さそうな木の家具があるガラス張りの部屋は学芸員が過ごす場所だ。カフェやミュージアムショップも、散策しているうちに出会う場所として設計されていた。