会場構成を担当したDIC川村記念美術館での「言語と美術─平出隆と美術家たち」展で(撮影/今村拓馬)
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会場構成を担当したDIC川村記念美術館での「言語と美術─平出隆と美術家たち」展で(撮影/今村拓馬)
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 バブルの時代、日本中が湯水のようにお金を使い、キラキラとした空気に包まれた。その中において、青木の建築は違った。馬見原橋(まみはらばし)、青森県立美術館、銀座や名古屋などにあるルイ・ヴィトンの店舗……。どれもがその土地の風景を生かし、人を生かす建築だ。穏やかな人柄だが、作品はいつも論理的思考に支えられた破壊の連続。今も若手の建築家が青木を追いかける。

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 本県上益城郡山都町にある馬見原橋をめざし、熊本空港からタクシーで山間の道を行くこと1時間半。五ケ瀬川沿いに突然夫婦岩が現れ、張られたしめ縄をくぐればそこが馬見原橋だ。

 馬見原橋は建築家の青木淳(あおき・じゅん 62)の代表作である。にもかかわらず、走り抜けた橋の佇まいは、拍子抜けするほど「普通」だった。二段構造で車道幅は5・8メートル。車道の傍の段を下りると、逆太鼓橋状で7・5メートル幅、板張りの歩行者専用道になる。中ほどにある直径2メートル超の穴から手すりにつかまって下を覗くと、清らかな流れが見えた。

 青木はかねがねこう語っている。

「僕はもともと儀礼的なものが好きじゃない。たまたま行ってみたらよかったとか、散歩したらいいものに出くわしたとか、音楽が始まったとか。その象徴が『道』だと思うんです」

 人々がすれ違い、市が立ち、芝居が演じられ、目的もなくたむろするうちに新しい何かが生まれる場所。それが「道」である。馬見原橋は、板張りの部分にゴザを敷いて宴会をやってもいいし、待ち合わせしてもいいし、寝そべって本を読んでもいいという。

「人がそこで自分の過ごし方を発見する場所を考えたら、こういうデザインになった。普通の『道』が川の上で『橋』に変異したようなものです」

 私が訪ねたのは秋の晴れた日で、橋の上に腰を下ろすと川音や鳥の鳴き声が聞こえた。ここで昼寝をしたらどんなに気持ち良かろう。何も決まっていない、だから自由な空間。青木の建築には建築家自身の自由な発想よりも、使う人の自由な行動を守ろうとする強い意志がある。

「建築にはコンセプトという言葉がある。『これは○○を表現している』と一言で言えることがコンセプトなんだけど、それに何の意味があるんだろう?と思う。ものを作るためには仮説が必要だということに過ぎない。最初に僕が考えたことを表現するために建築をやるわけじゃないでしょ」

●アイデアを考えることが眠らなくていいほど楽しい

 青木は、目的があらかじめ決められていない自由な場所を「原っぱ」という言葉で表す。一方、楽しみ方が用意されている場所は「遊園地」だ。昭和31年生まれの彼にとっては、原っぱこそ少年時代の原風景である。有刺鉄線で区切られた、何もない土地。土管が放置され草は伸び放題で、遊具などはなかったが、子どもたちは放課後になると原っぱに集まり想像力を駆使して遊んだ。

 青木の父は高度成長期を生きたサラリーマンで、母は専業主婦。転勤族だった父の勤務先を転々とする核家族である。

「小学校の頃から絵を描くのが好きで、家の間取りを描くのも好き。中学の図書館にたまたまガウディの本があって、写真を見た時、それまで僕が考えていた建築との違いにびっくりしました」

 やがて神奈川県立小田原高等学校に進学。当時の小田原高校では学園紛争は下火になっていたが、まだ自由な気風が残っていた。青木は朝礼には出ず、図書館へ直行して司書室でお茶を飲みながらその時間をやりすごす。嫌いな授業には出ない。

 好きな授業が一つだけあった。国語である。

「海軍兵学校を経て東大文学部を出られた篠原茂先生には大きな影響を受けました。篠原先生は大江健三郎の研究家でもあり、授業がとにかくおもしろかった。先生を追いかけて、ほかのクラスの授業もすべて聞いたりしていました」

 父の書棚にはいろいろな本があり、それを引っ張り出して読むうちに読書にのめり込む。好んだのはポール・ニザン、フランソワ・ラブレー、森有正、吉本隆明、安部公房。安部公房全集が出た時は、小遣いで1冊ずつ揃えるのが楽しみだった。作曲家の武満徹や音楽評論家の吉田秀和の著書にも影響を受けた。映画や芝居へもよく出かけた。

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