彼の建築論は難解な理論ではなく、透明感のある文体で思考のプロセスをわかりやすく語るものだ。一昨年には『建築文学傑作選』(講談社文芸文庫)を編集し、400字で50枚超の解説を書いた。文芸第一出版部単行本編集長の森山悦子は、
「こういう文庫としては異例ですが、何度か増刷しました。初速のよさは建築関係者が買ったからだと思いますが、それ以後は老若男女、幅広い一般の読者が買ってくださったようです。読者カードを読むと『作品の読み方が変わった』という反応が多かったですし、私にとっても新鮮な体験でした。長年編集をしていると本の読み方に手垢がついてしまうものですけれど、青木さんとのやりとりを通じて、『こういうふうに読むべきなんだな』とリフレッシュできたように思います」
と話す。選ばれた作品は単に建築物が出てくることが基準ではないし、作家の顔ぶれも須賀敦子、開高健、筒井康隆、川崎長太郎、澁澤龍彦、青木淳悟、芥川龍之介、幸田文、平出隆、立原道造と、青木の多彩な文学体験を物語る。
もちろん彼の鑑賞眼は本業においてもっとも厳しく発揮される。前出の門脇は自宅を設計した際、雑誌に発表する前に同業の友人たちを招いて感想を聞く会を催した。すると青木がそれを聞きつけて「見せて」と言ってきた。「いやなものはいやだから、僕は怖いよ」という言葉を添えて。
「影響を受けた先輩だからこそ、自分としては青木さんが考えていないようなことをやりたいと思っているわけです。来られる時は緊張しました」
幸い、「意外ときれいに収まっていて住みやすそうだね」という感想だったという。
「青木さんの特異なところは、今も若い建築家が彼を追いかけていることかもしれません。青木さん自身の作風は変化していて、それにいつも刺激を受けているんです。40歳前後の建築家が若手に支持されるのはわかりますが、それを20年、30年と続けている」(門脇)
青木はこの4月、東京藝術大学美術学部建築科の教授に就任した。定年まで5年間。大学院生の指導は実質3年しかできないというが、あえて時間を区切って集中する。
「デザインってかっこいいものを作ることじゃなくて、ウイルスが人間の生産能力を利用して自分を増やすように、まわりが気づかないうちにそこの状況を変えることじゃないかな」
という青木。破壊を恐れない彼の門下からどのような才能が生まれるだろうか。
(文中敬称略)
■青木淳
1956年/横浜市に生まれる。父が転勤族で、幼少期は横浜、新潟県長岡市、東京都世田谷区桜上水、渋谷区笹塚、大阪府豊中市、練馬区北大泉を転々とする。
72年/神奈川県立小田原高校入学。
76年/東京大学理科I類入学。3年次に工学部建築学科に進む。
82年/大学院修了後、磯崎新アトリエ勤務。水戸芸術館などを担当する。
91年/青木淳建築計画事務所を設立。
93年/プール施設《遊水館》。
95年/《馬見原橋》。第8回くまもと景観賞受賞。
97年/《潟博物館》。日本建築学会作品賞を受賞。
99年/《Louis Vuitton Nagoya Sakae》を設計し、以後同社の国内外の店舗を数多く担当する。
2004年/『青木淳 JUN AOKI COMPLETE WORKS[1] 1991ー2004』に収められた建築群で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞(美術部門)。
06年/《青森県立美術館》。
14年/《大宮前体育館》。《三次市民ホールきりり》。
15年/《京都市美術館》グランドリニューアルの設計者に、西澤徹夫との共同で選ばれる。
16年/新潟県十日町市中心部にあるふたつの建物を「市民交流館」「市民活動館」として改修する設計《十日町ブンシツ》で地域・コミュニティづくり/社会貢献活動の部門でグッドデザイン賞2016ベスト100に選出。
18年/10月から翌年1月までDIC川村記念美術館で開催された「言語と美術─平出隆と美術家たち」で会場構成を担当。
19年/4月から東京藝術大学美術学部建築科教授に就任。
主な著作として『原っぱと遊園地』『原っぱと遊園地2』『青木淳 1991ー1999』、《青森県立美術館》だけを取り上げた『青木淳 JUN AOKI COMPLETE WORKS [2]』(写真/鈴木理策)、《青森県立美術館》以降の38作品を収めた『青木淳 JUN AOKI COMPLETE WORKS [3] 2005ー2014』、編者を務めた『建築文学傑作選』、『フラジャイル・コンセプト』などがある。
■千葉望
岩手県出身。早稲田大学文学部卒。著書に『旧暦で日本を楽しむ』『共に在りて』など。本欄では、現代美術家の杉本博司・やなぎみわ、ヴァイオリン奏者の樫本大進、浪曲師の玉川奈々福らを執筆。
※AERA 2019年4月15日号
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