テレビやネットの動画では、映像に文字を重ねたり、小さな画面を入れ込んだり、ポップアップで情報を入れたりBGMを入れたりしていますが、それは普段私たちがそんな風に世界を見ているからなのだろうと思います。見るといっても目による行為としてではなくて、視覚的な情報に紐付けた意味の塊やひとつながりの連想として認識するということかもしれませんが。

 好きな人といるときの景色がキラキラして見えたり、初めて肌を合わせたときの記憶が飛び気味だったり、なのに感触だけは妙にリアルで、前後の順も不明確にただ言葉の端々が思い出されたりなんてこともそうでしょうが、入力された刺激が記憶として定着するときや、それを再生するときにはある程度加工されてしまうので、そのとき見たままになんて追体験することはできません。そもそも果たしてちゃんと見ているのかさえ怪しいものです。

 私は、物事を覚えるときや考えを巡らせるときなどは視覚的にイメージすることが多いのに、映像そのものを外部から取り込んで正確に記憶することはあまり得意ではありません。

 具体的に言うと、親しい人でも顔を思い出すことが難しいのです。記憶を再生すると顔の部分はぼやけていたり、たまにはっきりするけどすぐにまた曖昧になってしまったりします。家族でも、顔の細かいところを思い出そうとすると映像が霞んでしまいます。ところが似顔絵は描けるのです。しかも割と似ているのを。見たままを再生しようとしたり、細部の記憶を取り出そうとすると難しいのに、デフォルメしたイラストにすることはできる……これは一体どういう仕組みなのだろうと不思議でなりません。

 さて人間関係に話を戻しましょう。幼稚園に通っていた頃の私は、近所に住む意地悪な女の子に泣かされることがあり「どうしてわたしはすぐきずつくのかなあ」と思っていました。なぜそんなことを思ったのかは覚えていませんが、もしかしたら周囲の人に「そんなことで傷つくなんて敏感すぎる」とか言われていたのかもしれません。

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