すでに固有の肉体を持った他者との間では、どこまで行っても果たされない融合を願う不全感を生きねばなりません。それに比べて、予め同一の身体であった息子たちが私とは異なる個体として子宮から出てきて、どんどん遠ざかっていくのを見るのは、彼らに含有された私が彼らによって私でないものへと変換されて希釈される過程を見ることであり、他者に吸収され代謝されて消えてしまいたいと願う心性への慰めであるように思うのです。

■私の脳のなかの、記憶の再生のありよう

 さて前回、幼稚園に上がる少し前にようやく子ども社会にデビューして、自分が神様に選ばれた世界に唯一の子どもではないと気づいたところまでを書きましたが、そのように自己の相対化ができるようになってからの私には、他者との共存という大きなお題が示されることとなりました。

 人生で最初に出会った組織は幼稚園でした。年少時の私の興味関心は人間関係よりも、幼稚園で目にする色鮮やかなモノたちに集中していました。色紙で作った青い星形の手袋や、木製のままごとセットの滑らかな手触りや、花壇で育てた20日大根の赤い肌や、園庭のスピーカーから流れるくぐもった童謡をかき混ぜて吹き渡る秋風の匂いや、遠足のリュックサックの赤い生地にできた麦茶のシミや、周囲の事物がいちいち饒舌で、世界の気配や情感のようなものを実にしみじみと伝えてくるものだから、それらを味わうことに夢中だったのです。

 うっすら覚えているのは、園庭で何かをしているときに担任の先生に激しく怒られて、そのあと教室で泣いているシーンです。ああ先生は私のことがあまり好きではないのだなと感じました。年長組になってからの担任の教師には明らかに好かれていないことがわかりましたが、それと私のADHDがどのように関係していたかはわかりません。

 何しろこの頃の記憶はいずれも自分を中心にした風景や言葉にならない感情の記憶なのです。それらは連続したストーリーではなく、箱に投げ入れた写真のように前後の順番もなく折り重なっています。ほんのワンシーンを切り取った画像に、その時私を取り囲んでいた空気や、それを見ている自分の気分などが、文字ではない情報で細かく書き込まれています。

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