小島慶子(こじま・けいこ)/エッセイスト。1972年生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『歳を取るのも悪くない』(養老孟司氏との共著、中公新書ラクレ)、小説『幸せな結婚』(新潮社)、対談集『さよなら!ハラスメント』(晶文社)
小島慶子(こじま・けいこ)/エッセイスト。1972年生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『歳を取るのも悪くない』(養老孟司氏との共著、中公新書ラクレ)、小説『幸せな結婚』(新潮社)、対談集『さよなら!ハラスメント』(晶文社)
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■物事の優先順位がつけられずに大混乱はザラ

 軽度のADHDであることを公表してから、それについての取材を受けたり文章を書いたりする機会が増えました。でも全員が固有の脳みそを生きるしかない以上、定型発達と非定型発達とか、健常と障害とか、線引きをするのは無理があるのではないかと思えてなりません。

 先日、NHKの発達障害に関する特別番組の密着取材を受けたのですが、軽度のADHDであることを映像で捉えようとすると、とても難しいのです。部屋に定点カメラを設置して私の様子を撮影しても、ほとんどの生きづらさは脳の中で起こっていることなので、映像化できません。ごく普通にデスクに座っているように見えても頭の中では物事の優先順位がつけられずに大混乱を起こしているなんてことはザラで、それを専門家は障害の特徴と呼ぶかもしれませんが、私の頭の中で起きていることが同じ診断名のついた人の頭の中で起きていることと同じだと証明するすべはありません。当人の感じている生きづらさの理由は一つではないだろうし、何が発達障害によるものなのか性格に起因するのかその時の体調なのか環境が合わないのか、厳密に客観的なデータとして示すことは不可能ではないかと思うのです。

 私はたまたま、頭の中がどんな感じになっているかを比較的細かく説明できるので、あくまでも主観的な「私の場合はこうです」を一人称で語るという形で、自分の体験を他の人に伝えています。でも常に、それが私に固有のことなのか、それとも多くの人にも起きていることなのか、ある現象はADHDだからなのか、いろんな要素で成り立った私のありようそのものによるものなのか、わからないなあと思いながら言語化しています。もうとにかくこうなっているので、なんとでも名付けてください、という心境。

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小島慶子

小島慶子

小島慶子(こじま・けいこ)/エッセイスト。1972年生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『幸せな結婚』(新潮社)。共著『足をどかしてくれませんか。』が発売中

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