ですからこの文章もどうか、ADHD告白記と思って読まないで下さい。あくまでも、私には世界がどう見えているかを書いたもので、そのどの部分がADHDゆえかは、当人にもわからないのです。ADHDであることは私の脳みその特徴の一つですが、それが全てではありません。この脳みそは世界に一つしかなく、1回きりの発生の過程で形成された再現不可能なものなので、その独自性は「ADHDだから」ではなく「この脳みそだから」という方が正確なのではないかと思っています。

 私たちは肉体という牢獄からどうしたって出ることができません。どれほど親密に接しようとも、他者の身体と融合することもできません。そのどうしようもない孤独は誰しも同じでしょう。誰かに「わかるよ」と言って欲しいのは、ほんのひと時でもその孤独を忘れたいからだし、同時に簡単に「わかるよ」なんて言われたくないのは、その孤独をこそ知って欲しいと思うからで、どちらも「私はここにいる」という切実な生の実感を、それが消えてしまうまで誰に預けることもできずに抱えていかなくてはならないやるせなさのあらわれなのではないかと思います。

 と、今これを書きながら気がつきましたが、私はどうもこの「誰かと融合してしまいたい」という欲求が強いようです。それというのも自分が消えてしまったら随分楽だろうという気持ちがあるから。独房に入ったまま自ら消えていく方法を選ぶよりも、叶うことなら誰かに吸収されてしまいたいと願っているのです。

 大きな物語ではなく個人の物語や肉体と同化したいと願う私のような人間にとっての救いは、身体的な親密度の高い人間関係です。息子たちが他の人とは違った存在なのは、彼らの身体がもともと私の卵子を材料にして生成されたということに起因するように思います。実際には、息子たちの身体にはもう私の卵子由来のタンパク質なんてかけらも残っていないにもかかわらず、そもそもの始まりが自分と同一の成分であったということが、他にはない安心感につながっています。

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