安全地帯がなかった三軒茶屋停留所の乗降風景。写真のデハ80型(車輪径810mm)は高床式のため、幼児やお年寄りの乗降は難儀だった。混雑時には係員が派遣され、中間の扉も使用された。この停留所に近接した「綿元寝具店」「大和一文字金物店」「乾物のあだち商店」は、今も同所で盛業中なのが嬉しい。(撮影/諸河久:1969年5月10日)
安全地帯がなかった三軒茶屋停留所の乗降風景。写真のデハ80型(車輪径810mm)は高床式のため、幼児やお年寄りの乗降は難儀だった。混雑時には係員が派遣され、中間の扉も使用された。この停留所に近接した「綿元寝具店」「大和一文字金物店」「乾物のあだち商店」は、今も同所で盛業中なのが嬉しい。(撮影/諸河久:1969年5月10日)

 同じ歩道橋から後側に当たる渋谷方を写した別カットをご覧になれば一目瞭然だが、並行する高速道路がなかったこの時代は、一般国道の交通渋滞は酷いものだった。玉電が走る軌道内には車が雪崩のように入り込み、定時刻の運行を妨げていた実態がおわかりになるだろう。

■「デハ200型」はLRTの先駆け

 このデハ200型は1955年に東急車輛で製造された玉電の近代化に呼応する新鋭車だった。たまご状張殻構造の車体で超軽量化を計った連接路面電車で、中間一軸台車は他に例を見なかった。車輪径510mmで床面高さ590mmという超低床と、「PCC車」のような高加減速を実現させた。今日各地を走る低床・バリアフリーの路面電車「LRT」の先駆け的存在だった。スペイン国鉄の連接客車にちなんで「和製タルゴ」と呼ばれ、大きな正面二枚窓の外観から「ペコちゃん」ともニックネームされた。

 残念なことに、1960年代から始まった路面交通事情の悪化により、その性能を存分に発揮できず、1969年の玉川線廃止と運命を共にして、15年の活躍に幕を下ろしている。

■撮影:1969年5月10日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。

AERAオンライン限定記事

暮らしとモノ班 for promotion
大谷翔平選手の好感度の高さに企業もメロメロ!どんな企業と契約している?