三軒茶屋を発車して、世田谷線との分岐点に差し掛かる玉電近代化のエースデハ200型。玉電の右側を走るのは日産ブルーバード510クーペで、後部を併走するのが日産ブルーバード410と「ブルーバード」の全盛期でもあった。三軒茶屋~三宿(撮影/諸河久:1969年5月10日)
三軒茶屋を発車して、世田谷線との分岐点に差し掛かる玉電近代化のエースデハ200型。玉電の右側を走るのは日産ブルーバード510クーペで、後部を併走するのが日産ブルーバード410と「ブルーバード」の全盛期でもあった。三軒茶屋~三宿(撮影/諸河久:1969年5月10日)
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 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、いまや若者に人気の街として知られる「三軒茶屋」界隈を走った路面電車、東急玉川線だ。

【これぞ昭和の大渋滞! 玉電最終日の渋滞写真や、現在の三軒茶屋写真はこちら(計5枚)】

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「あの時代は良かった」などと無粋なことを言うつもりはない。だが、ちょうど50年前と言われれば、どうしても「あの日」を思い出してしまう。

 1969年5月10日、渋谷と二子玉川園を結んでいた路面電車「東急玉川線」が廃止された。「玉電」の愛称で地元の利用者に親しまれただけでなく、その先進的な機能や美しいフォルムは路面電車や鉄道愛好家の間でも人気を集めた。

 若い読者の方にはその雄姿が想像つかないはずだが、廃止から半世紀が経ったいまでも、JR渋谷駅には玉電の名残がある。駅西側に「JR玉川改札」という改札口があるが、これはかつて「東急玉川線」のホームと連絡していたからだ。「玉川改札の玉川ってなに?」と疑問に思った利用者がいるかもしれないが、玉電に由来していることは年配の方しかわからないだろう。

JR渋谷駅の玉川改札。かつて「玉電」との乗り換えで使われていた呼称がそのまま残っている(撮影/AERA編集部・井上和典 協力/東急百貨店、東京急行電鉄)
JR渋谷駅の玉川改札。かつて「玉電」との乗り換えで使われていた呼称がそのまま残っている(撮影/AERA編集部・井上和典 協力/東急百貨店、東京急行電鉄)

 写真は玉川線運転最終日の1969年5月10日、三軒茶屋交差点を走る渋谷行きの玉電デハ200型だ。この日は土曜日であったが、現在のように「土曜日=休日」という図式ではなく、せいぜい半休か通常出勤の事業所がほとんどであったから、人も自動車も平日と変わらぬ賑わいを見せていた。

■「三軒茶屋」の由来

 古来、世田谷の地は鎌倉街道、大山道、登戸道など江戸から相州に向う街道筋にあたり、ことに「三軒茶屋(さんげんぢゃや)」は大山道(現・玉川通り/国道246号線)と登戸道(現・世田谷通り)の追分(分岐点)として、交通の要衝であった。

 三軒茶屋の呼称は、昔この地に「角屋」「田中屋」「信楽屋(後年石橋楼となる)」の三軒の茶屋があっとことが由来となっている。正式に「三軒茶屋町」の地名となったのは、1932年に世田谷区になってからのことだった。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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玉電の呼称で親しまれ