子どもを育てるときに大切なのはまず「そこにいていいよ」と受容することですが、先に受け入れてくれたのは子どもの方でした。だからその全幅の信頼に応えるべく、こちらも尋ね続けています。「あなたは誰? あなたのことをもっと教えて」と。

 息子たちは私がADHDと診断されていることや、その特徴と曖昧さをわかっています。母親が一日中パソコンの前から動かないことも、話しかけても上の空のときがあるのも、時々喋りすぎるのも、出かけるときにいつも間に合わないのも、ADHDだからでもあるみたいだけどまあママって元からそうだよね、という認識のようです。夫も含め、そのように思ってくれている人がそばにいるのはとても安心します。

 彼らは10代前半で、両親が不完全であることを知りました。自分たちの親は英語の不自由な寄る辺ない移民で、弱い男と凸凹の女がいくつもの感情がもつれた糸で繋がっている。その有り様をライブ実況で目にしながら成長して、どんなふうに振り返るのかはわかりません。ただ、人は一言では説明できないくらい複雑なもので、そのややこしさごと一緒に生きていくこともできるのだという実感を持ってくれているのではないかと思います。

 昨年、父が倒れて急逝しました。看取りの瞬間はたまたま病室に私と二人きりだったのですが、看取りは母性だと思いました。後から思うと、あれは生まれたばかりの赤ん坊に対する態度とちょっと似ていたのです。脳梗塞で倒れ、意識不明のままゆっくりと生命維持機能を失っていった父の脈拍が急速に落ち始めたとき、背中をさすりながら私はただ「パパは死ぬのが初めてだから、怖がらせないようにしなきゃ」と思っていました。父をこれ以上苦しい肉体にとどめておく気にはなりませんでした。無事に送り出さねば、安心させねばと「大丈夫だよ、こっちにも向こうにもみんないるからね」と声をかけ、感謝と敬愛の言葉を伝え続けました。

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