早慶戦の復活後、慶應は早稲田に立て続けに苦杯をなめさせられていた。27年春までに7回対戦し、早稲田に6敗を喫し、勝利はわずかに1。そんな折、慶應が編み出したのが新たな応援歌だった。
「慶應は早稲田の『都の西北』の大合唱に圧倒されていたようです」
そう語るのは、日米の野球の歴史に詳しい慶應義塾大学の池井優名誉教授だ。
「とにかく『都の西北』を打ち負かす歌を、という号令のもと作られたのが、『若き血』でした」
池井氏は、その歴史をこう説明する。
作詞・作曲をした堀内敬三氏は、とにかくテンポの速さにこだわった。
「あまりにテンポが速すぎて、はじめはみんな歌えなかったそうです。それだけ、当時の応援歌としては画期的だった」(池井氏)
「若き血」は早速効果を発揮する。練習を重ね、初披露された27年秋と翌年秋(28年春は慶應が米国遠征のため試合なし)、慶應は早稲田に4戦4勝という成績を収める。
これを受け、早稲田も負けじと、全校から新たな応援歌の歌詞を募集。その結果、住治男氏の「紺碧の空」が選ばれた。作曲は当時21歳だった作曲家の古関裕而氏。「紺碧の空」が好評を博し、同氏は六大学リーグの応援歌を何曲も手掛けた。
「紺碧の空」の力もあってか、31年春秋の早慶戦で早稲田は、4勝2敗で勝ち越す。
池井氏は、応援歌があることで、「学校が一つにまとまる」と自身の体験を交えてこう話す。
「当時、東大に落ちた学生が、慶應に入ってくることが多かった。いわゆる不本意入学です。その人たちは『なんで俺が慶應に……』という心境だったのですが、慶早戦に行って『若き血』を歌うとコロッと“慶應ナショナリズム”にやられて、一日にして慶應っ子になるんです(笑)。慶早戦に『若き血』と『紺碧の空』があるからこそ、人々が一つになって盛り上がるのではないでしょうか」
(本誌・唐澤俊介)
*早慶戦の歴史や記録の多くは、『早慶戦全記録』(堤哲編著 啓文社書房)によった
※週刊朝日 2023年5月5-12日合併号より抜粋