59年に大井道夫投手(元日本文理監督)を擁して準優勝して以来、27年ぶりの出場となった宇都宮工は、地元では「宇工」と呼ばれているが、甲子園のスコアボードの校名は当時3文字までしか入らなかったため、「宇都宮」と表記された。
ところが、テレビ中継を見ていた栃木県民から「『宇工』に改めてほしい」という要望が殺到したことから、試合中にもかかわらず、「宇工」に変更された。
この時点で宇都宮工は0対2とリードされていたが、直後の4回に無死二、三塁から連続スクイズ(記録はいずれも一塁内野安打)で同点に追いつくと、7回にも連打で無死一、三塁から荒川豊のバットを短く持って叩きつける“技あり”の三塁内野安打で勝ち越し。まさに“ご利益”とも言えそうな逆転勝ちを収めた。
だが、実際に逆転劇をもたらしたのは、27年前に大井投手と準優勝バッテリーを組んだ猪瀬成男監督の檄だった。
3回の攻撃が始まる前の円陣で、「お前ら甲子園に何しに来たんだ。勝つために来たんだろう。オレは今日(負けて)絶対に栃木には帰らんぞ」と宣言した。
この言葉に発奮したナインは、数少ないチャンスを確実に得点に結びつけ、エース・田宮真二も7回を除く毎回の13安打を浴びながらも、粘りの投球で2失点と踏ん張った。
終始桐蔭に押されながらも、相手に食らいつく“ピラニア野球”で27年ぶりの白星を手にした猪瀬監督は試合後、「甲子園勝利の味は格別です」と選手以上に喜んでいた。
1990年、スコアボードに8つの「1」を並べる珍スコアを実現させたのが、日本ハム・新庄剛志監督の母校・西日本短大付だ。
前年、1番打者・新庄がサイクル安打を記録しながら福岡大会決勝で敗れた悔しさをバネに、4年ぶり2度目の夏の甲子園出場を決めた同校は、初戦(2回戦)で、富山県代表の桜井と対戦した。
1回表は先頭打者が出塁しながら無得点に終わったが、2回にスクイズで1点を先制すると、3回にも木附貴雄の左越えソロで加点。4回は犠飛、5、6回はタイムリー、7回には木附のこの日2本目の左越えソロで1点ずつを加え、8回にも木附のタイムリー二塁打で7対0と突き放す。