だが、翌86年は、開幕投手を池田親興に奪われ、開幕3戦目の先発に回されたことや希望する中4~5日のローテーションが守られず、登板間隔を長く空けられることに不満を募らせる。オールスター休み期間中、ゲイルは吉田監督に「絶好調のピッチングをするには、4、5日の間隔で登板しないとダメだ」と直訴し、中4~5日での登板を了承させたが、皮肉にも8月から9月にかけて5連敗するなど、逆に成績を落とした。
7月29日の巨人戦では、6回を1安打7奪三振無失点と好投しながら、代打を送られたわけでもないのに交代させられ、降板後に逆転負け。首脳陣にうるさく注文をつけたことで、嫌われた感があった。

 さらに同年からストライクゾーンが低めに広げられた結果、前年のように打線の援護も得られず、5勝10敗、防御率4.56と低迷。わずか2年で退団、帰国となった。

(文・久保田龍雄)

[AERA最新号はこちら]