ヤクルトといえば、78年にテスト入団した内野手、デーブ・ヒルトンも、1年目の輝きを持続することができなかった。

 インディアンスを解雇され、所属の決まらないヒルトンは、一度は引退を考えたが、同じころ、ヤクルトの新外国人候補の“本命”が夫人の反対で合意に至らなかったことから、一転チャンスがめぐってきた。日本でプレーしたい思いを便箋5枚に綴ってアピールしたヒルトンは、ユマキャンプでヤクルトのテストを受け、年俸4万5000ドル(当時のレートで約800万円)で契約した。

 当初は期待されていなかった“格安助っ人”は、開幕戦でマルチ安打を記録すると、6月中旬まで3割8分近い高打率をマーク。“青い目の安打製造機”と呼ばれ、同年は1番打者として打率.317、19本塁打、76打点で、球団の創設29年目の初Vに貢献した。さらに阪急との日本シリーズでも、1勝2敗で迎えた第4戦で、敗色濃厚の9回にシリーズの流れを変える起死回生の逆転2ランを放ち、球団に初の日本一をもたらした。

 だが、翌79年は打率.258、19本塁打、48打点と成績を落とし、自由契約に。3年目は阪神でプレーしたが、ドン・ブレイザー監督がヒルトンを重用し、期待のルーキー・岡田彰布を使おうとしなかったことから、監督ともどもファンやマスコミの総攻撃を受けてしまう。

 自宅への無言電話や「家族を殺す」などの脅迫を受け、心労から打率.197と打撃不振に陥ったヒルトンは、5月10日に解雇され、寂しく日本を去った。

 来日1年目の85年にチーム最多勝を記録して、日本一に貢献しながら、2年目は鳴かず飛ばずで終わったのが、阪神のリッチ・ゲイルだ。

 ロイヤルズ時代に二桁勝利を2度記録し、メジャー通算55勝を挙げた198センチの長身右腕は、140キロ台のストレートと落差の大きなカーブを武器に、5月18日の巨人戦で来日初完封を記録するなど、6月下旬までに7勝を挙げ、「安心して計算できます」と吉田義男監督を喜ばせた。その後、夏場に調子を崩したが、防御率は4.30ながら13勝8敗の好成績でチームの21年ぶりリーグVに貢献。西武との日本シリーズでも、第2戦と第6戦で勝利投手になり、日本一の胴上げ投手になった。

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