「尊王攘夷」では「尊王」のほうが重要な意味を持つ

大澤 教科書的に言えば、ファシズムは全体主義の一つです。国家を一枚岩的に統一する強い指導力というのが全体主義のイメージです。しかし日本の場合、はっきりとした全体が欠けているところに日本の戦前のファシズムの特徴があったんだ、と『未完のファシズム』では書かれています。だから未完なんですね。これは明治以来の国家の組み立ての仕方、特に天皇に関係してくる特徴でしょう。

片山 おっしゃるとおりです。

大澤 では、なぜ明治維新の大政奉還、王政復古で天皇が政治の中心に出てきたのか。日本人が国民にならないといけなかったからです。幕末に黒船が来て一大事だと言っている時に、オレは自分の藩が、村が、家が大事だと各々が言っていたら困ります。それらよりも日本に所属しているという意識をつくる触媒が必要だった。それが将軍ではなく、天皇だったというわけです。

 ただ、僕には疑問があります。明治維新は「尊王攘夷」で始まりましたよね。しかし、武士たちが最初から天皇を尊敬しているはずがありません。むしろ天皇のことなんか考えたこともなかったと思う。いわゆる尊王思想の水戸学のようなものが一応用意されていたけれども、倒幕運動に天皇を利用したというのが本当のところでしょう。

 一方、攘夷のほうはどうか。徳川幕府は開国したからけしからんとなって倒幕運動が本格化します。しかしいつの間にかみんな開国になって、攘夷はどこかへ行ってしまった。晩年の加藤典洋さんが、本当は尊王のはずがないから、重要なのは攘夷のほうだった。しかし、それを臨機応変に開国に切り替えた明治維新のリーダーたちは立派だった、「攘夷」の中に素朴だけれどもきちんと地に足がついた「地べたの普遍主義」があったからだ、というような論を張っていました。

 しかし、僕は尊王がやはり重要だったと思います。少なくとも「攘夷」に比べて「尊王」はどちらでもよかった、というわけにはいかない。結局、それが明治のイデオロギーになって、そして明治憲法の中で天皇がそれなりに重要な意味を持つからです。しかし、本当は江戸幕府が始まった時に天皇制をやめてもいいような状況でした。明らかに武家や将軍側は、公家と天皇をみくだしていた。一応とっておくかという感じで残り、250年くらいほとんど存在感がなかったわけです。

 それなのに明治維新のときに、武士たちが――とりわけ下級の武士たちが――突然とそれにコミットする。その後、ずうっとコミットし続け、最後にはそのために玉砕や特攻までいく。この現象を一体どう考えればいいのでしょうか。

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