
「生きて虜囚の辱めを受けず」の作者までが忘却される
大澤 『未完のファシズム』には、陸軍大臣の東條英機が出した「戦陣訓」の作者の一人として、陸軍少将だった工兵出身の中柴末純(なかしば・すえずみ)のことが詳しく紹介されています。中柴という人がいたことをそこで初めて知りました。そして非常に驚きました。最も驚いたのは、僕らの忘却の徹底ぶりです。中柴は僕と同郷、信州の松本の人なので、僕は彼がいかに完全に忘れられているのか、実感できるのです。
片山 日米開戦前の1941年1月に出された「戦陣訓」は「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」との文言が有名で、玉砕や自決を強いたといわれる陸軍の訓令です。そこに中柴が噛んでいた。彼は今の日本の国力では戦争に敗けるとわかっていながらも、物量でかなわなくても精神で勝てるんだという精神主義を唱え、同時代的には目立つ軍人のひとりだったはずなのですが。総力戦体制の挫折の上に開き直った典型的人物だと思います。時代を知るのにはとてもよい。
大澤 東條のブレーンですから、ある意味、かなり立身出世した人です。このくらい重要人物になった人ならば、普通だったら、地元の人は、「郷土の偉人」のひとりとして必ず記憶にとどめ、たとえば生家なども保存されたり、ちょっとした記念碑とかが建てられてもふしぎではないはずの人です。ところが、松本の人でも彼のことを知っている人はほとんどいない。多分、僕に学が足りないので知らない、というのではないと思います。片山さんが見出した中柴は、戦争・敗戦に関して、日本人がいかに徹底して記憶を抑圧し、排除しているかを示す、格好の実例になっているのです。
片山 たとえば、北一輝のような“一流”ばかりを取り上げて中柴のような時代相の写し鏡のような人物を忘却したのでは、時代の実相を忘れることにしかならないと思うのです。凡庸さや普通さなくして歴史なしですよ。戦後80年、昭和100年、明治160年という節目だからこそ、そういう構えを改めて大切にしたいと思います。