産経新聞というと論調としては右だが、1970年11月25日の三島由紀夫の自決についても、翌日の一面で〈自己の文学の終末を飾るために、狂気に走る─そのエゴイズム〉と徹底的に批判している。
〈三島は、昭和元禄といわれる世相を、怒りと憎しみをこめて批判した。だが、平和を願い、こどもを産み育て、一家の幸せを願って働く。(中略)それがなぜ批判されなければならないのか〉
〈日曜に、こどもつれて遊園地に、あるいは月賦で買ったマイカーでドライブを楽しむサラリーマン。やりくりをしてマイホームのために貯金をする妻。学習院ではなく、町の公立の小学校にこどもを通わせる家族。その家族のあたたかさ、かなしみ、そのほんとうの味わいは三島にはわからなかったのだ〉
初代の編集長だった山路昭平が自ら書いたというこの一面は、今読んでも名文だ。そして夕刊フジという媒体の性質をよく現している。
この「オレンジ色のニクい奴」は、帰宅途上のサラリーマンに圧倒的な支持をうけた。
1980年代半ばに、夕刊フジに入社し、広告営業をした私の友人に聞くと、当時は「東京と大阪であわせて100万部以上の部数があるという媒体資料をもって、ビジネスマンの使うワープロメーカーや酒タバコの広告をとってまわった。経費は使い放題。上司の部長は、毎晩のように銀座のクラブにくりだしていた」。
実際、馬見塚達雄の本には、札束を刷っているようなもので、産経本社のボーナスは、夕刊フジの利益でまかなえたとの記述がある。
1990年に産経新聞社に入社した矢野が、夕刊フジに配属されたのは、オウム事件が一段落をむかえていた1995年夏のことだ。このオウム事件の最中に、夕刊フジは最高部数に達する。
当時の夕刊フジの編集部は100人をこえる陣容だった。矢野は、しだいに政治担当になっていくが、本紙と違うのは、与野党問わず取材できたことだった。新聞本紙では、与野党どころか、自民党は、派閥ごとに担当記者がいた。そして記者クラブを拠点とした取材をしていた。