夕刊フジというメディアが消滅した。
そもそも、かつてはどこの駅にもあったKIOSKなどの売店が、どこにもなくなってしまったため、その最終号に気がつかなかった人も多かったろう。
新聞は宅配で家庭に配られるもの、とされていた日本の高度成長期に、郊外へ郊外へと伸びる東京・大阪の鉄道網の各駅に設置された売店での「即売」というイノベーションによって生まれたメディア。
1968年の創刊準備室の段階から、夕刊フジに20年携わった馬見塚達雄(故人)の『「夕刊フジ」の挑戦』(2004年 阪急コミュニケーションズ)なども参考にしながらその誕生と終焉について書こう。
拡大する首都圏の通勤圏を後背地として
ヒントは、ニューヨークの1968年春の地下鉄の光景にあった。当時、産経新聞の社長室長だった河野幹人は、何か商売のネタになるものがないかと、米国に派遣されたのだが、地下鉄やバスで通勤客が帰宅時に読みふけっていたのが、ニューヨーク・デイリー・ニュースだった。
ニューヨーク・デイリー・ニュースは、通常の新聞の半分のサイズのタブロイド版を初めて開発した新聞で、この新聞は広げても隣の人の邪魔にならず、遅版が夕刻に路上の売店で売り出されると、飛ぶように売れていた。その部数は200万部以上。
帰国した河野は、社長室で退勤時の通勤客の行動調査を行う。日本でもターミナル駅の売店で売られる夕刊紙は、大阪ではさかんだったが、東京では東京スポーツと内外タイムスしかなく、しかもそれは車内で広げにくい。
ここに勝機がある。
そうして夕刊フジは、1969年2月26日に創刊された。
「退勤時のサラリーマンに向けた編集というのは、創刊時から変わっていません」
そう語ってくれたのは、夕刊フジ最後の編集長だった矢野将史だ。
矢野が編集長の時代にも、たとえば岸田政権や石破政権で、くりかえし提案される「退職金増税」に反対するカバーストーリー(一面記事)を書いている。