元亀三年(一五七二)四月、徳川家康・織田信長を絶体絶命の危機に追い詰めていた武田信玄が急死すると、家康は信玄に奪われた諸城を奪還。長篠城をも開城させた。
一方、天正二年(一五七四)から武田勝頼は東美濃に出陣、攻勢に転じ、家康領は徐々に縮小。天正三年、岡崎で勃発した謀叛事件につけ込むように、武田軍は三河侵攻を開始。勢いに乗った武田軍は東三河を席巻、長篠(ながしの)合戦が勃発する。
圧倒的な軍勢差にもかかわらず勝頼はなぜ長篠での決戦に打って出たのか。両軍とも鉄砲を使用しながら勝敗を分けたのは何か。今なお解明されていない謎が残る。
城郭考古学者・千田嘉博氏と歴史学者・平山優氏が研究の最前線を語り合う『戦国時代を変えた合戦と城 桶狭間合戦から大坂の陣まで』では、長篠合戦の現場の設楽原での布陣状況、広域での両陣営の情勢から合戦の歴史的意義を読み解いている。本書を一部抜粋、再編し、一新された長篠合戦のイメージや、謎解明に向かう近年の研究状況を紹介する。
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なぜ勝頼は勝ちめのない信長・家康に挑んだのか
平山:いよいよ設楽原(したらがはら)(有海原〈あるみはら〉)の決戦となります。
千田:今回の信長はかなりの数の援軍で駆けつけています。信長軍は二万五千とか、三万とかといわれています。家康は八千なので、連合軍は三万八千です。それに対して勝頼は一万五千ぐらい。勝頼は長篠城を押さえる軍勢を残しつつ、決戦場へ進んでいくことになったわけですが、勝頼はなぜ戦いに出たのですか。