千田嘉博、平山優著『戦国時代を変えた合戦と城 桶狭間合戦から大坂の陣まで』(朝日新書)>>書籍の詳細はこちら

平山:地元の研究団体の方々が熱心に長篠合戦の研究に取り組んでおられますが、その地元の方々もこれは明治以降の植林による整地の跡だと指摘している場所が多くあります。かつて千田さんと一緒に歩いたときに「これは、陣城のつくり方じゃないよね」と確認し合ったのが印象的でした。

千田:確かに信長は馬防柵(ばぼうさく)をつくるための木材を岐阜からもってこさせ、陣を構築する計画はあったのだろうと思いますが、地表面観察の成果を拡大解釈して、長篠合戦のイメージを変えてしまっているように思います。

平山:有名な戦いですが、史料に乏しくて、よくわからないのが現状ですね。

千田:どんな戦いだったか、わかりそうでわからないですね。

平山:馬防柵をつくるのがやっとだったのではないかと思います。

千田:南北に延びた丘陵を背にしていますから、その前面に陣を配置したことは間違いないですが、大規模な造作には至らなかったと思います。

平山:東京大学史料編纂所で編集している『大日本史料』第十編二十九、三十で長篠合戦に関する史料が集成されたのですが、それには信長の新史料も収載されています。信長方にも少なからず犠牲者が出たと史料に書いてあります。

 信長自身がそういうのだから相当なことだったと思います。徳川方の軍記物にも徳川軍の前面にあった三重柵は全部倒されたと書いてあります。武田方も善戦して、双方それなりの犠牲者が出たと思われます。

千田:その点でも一方的に武田方が鉄砲で撃たれ、手も足も出なくて総崩れしたという状況ではないですね。

 長篠合戦が鉄砲を主役にした近代的な戦いの転換点だといわれた時期もありましたが、近代対前近代という評価は当たらないし、織田・徳川連合軍が勝ちましたが、武田方の善戦があり、かなり肉薄していたと再評価する必要があります。三重柵で防御的に構えて、鉄砲で迎え撃つ織田・徳川連合軍に対して、勝頼にも戦略があったはずです。

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