鉄砲隊は一列が三段構えで射撃をしたのではない
平山:長篠の古戦場には何人もの戦死者の碑が立っていますが、馬防柵の近くで石碑が立っているのは土屋昌続(まさつぐ)と甘利(あまり)信康(のぶやす)の二人だけです。このうち甘利信康は武田軍の足軽大将で鉄砲衆です。長篠合戦の直後に勝頼が新しい軍法を出すのですが、その中に鉄砲はたくさん用意しろ、弾は一挺(ちょう)あたり三百発用意しろと書いてあります。
今までの武田氏の軍法では弾を何発用意しろと指定した文書は一切ありません。そのくらいは用意しろというのは、武田方にも鉄砲はあったが、早い段階で弾が尽き、しかし敵方はずっと撃ち続けられたのではと考えています。
千田:勝頼にしてみれば、織田・徳川連合軍が鉄砲を撃ってくることは織り込み済みで、しばらく戦ううちに相手の鉄砲は撃ち尽くしてしまい、激突になれば勝てるという思いもあったのでしょうね。
平山:そう考えています。『信長公記』の尊経閣(そんけいかく)文庫所蔵の写本には、鉄砲衆に対して、弓の人びとも加わり、鉄砲衆だけだと弾込めのときに突っ込まれてしまうので、それを援護するため弓も必要になったと記されています。これまでいわれてきたような、一方的な戦局ではなかったと思います。
千田:長篠合戦では、いわゆる三段撃ちについても諸説あります。
平山:三段を三列射撃だと解釈した時点で間違っているのです。そもそも「段」に「列」という意味はありません。『信長公記』に「段」と書いてある部分は、部隊の数え方なのです。
三段とは、実は鉄砲衆三部隊のことで、三部隊の鉄砲衆が弓の支援を受けながら、弾込めが終わった段階で物頭(ものがしら)、つまり指揮官の命により射撃していたのです。武田方も同じで、二五人か三〇人につき一人の物頭がいるのです。だからドラマなどで見る、一列の鉄砲隊が三段構えになって「構え、撃て」というのではなかったと思います。
千田:そもそも敵が射程範囲内にいなければ、撃っても仕方がないのです。
平山:いくつかのグループごとに、ランダムに射撃をしていたと思います。
千田:そう捉えるのが合理的です。
そして織田・徳川の連合軍にすれば、記録にあるように馬防柵や三重柵まで突破されそうな、ギリギリのところまで武田軍が攻め込んできたと感じていたとわかります。
徳川美術館蔵「長篠合戦屛風図」を見ると、雄大な谷を挟んで戦っているように描いていますが、実際に現地に行ってみると、谷を挟んでも相手の顔がわかるぐらいの距離感です。
平山:家康や信長の姿や顔が見えたはずですよ。家康が陣を構えた古墳の上からは、山県(やまがた)氏の陣地がよく見えます。顔もわかると思います。
千田:長篠合戦は結局、武田方は人が減り、退却せざるをえなくなりますが、勝頼の退却戦もなかなか壮絶です。
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