千田嘉博、平山優著『戦国時代を変えた合戦と城 桶狭間合戦から大坂の陣まで』(朝日新書)
長篠・設楽原合戦の布陣

平山:長篠合戦の最大の謎です。まったく理由がわからない。勝頼の面子(メンツ)の問題だろうと私は思っています。

千田:信長・家康連合軍が圧倒的に多い人数だとわかれば、面子もあるでしょうが、野戦で決戦とはならないと思います。信長方にも何か戦略があったのですか。もちろん数が多いので有利ではありますが。

平山:信長は兵力を少なく見せかけるために、設楽の窪地に兵の多くを隠していたと『信長公記』に出てきます。武田方からは弾正山(だんじょうやま)が邪魔になって見えないのです。勝頼ももちろん兵の数の比較をしていたでしょうが、確認できなかったとすれば武田方の索敵不足でしょうね。

千田:長篠城に向かってくる織田・徳川連合軍は、大きな平野を進んでくるのではなく豊川沿いに分散してくるので、武田方には兵の数がわかりそうに思うのですが。

平山:本当に不思議です。長篠合戦は城郭研究からいうと陣城の問題があると思います。織田・徳川連合軍は大規模に陣城を設けていて、たとえば、極楽寺山とか、弾正山とか、ものすごい勢いで野戦築城をしているとの学説があります。武田方も勝頼の本陣を中心に若干、陣城をつくっていたといわれますが。これをどう考えますか。

千田:織田・徳川方の陣城が膨大な数で何キロにもわたって続いていたとみるのは難しいと思っています。人工的な構造物の痕跡はありますが、それらはいずれも長篠合戦時の陣城だとみなさないほうがよいでしょう。

 武田方についても、平らになっているところや土手状の箇所がありますが、武田軍が長篠へ進出してきて、短期間に織田軍に匹敵するような陣城をつくったと考えるのは無理がある。武田方に陣城に相当するものはなかったというのが実情ではないでしょうか。

 いずれにしても、この決戦の周辺には高い山はなく、丘や河川が開析(かいせき)した谷が南北に入っていて、その両脇の尾根上に延びた地形で、様々な時代に人が手を加えていました。それらをつないで、長篠の合戦のときの陣城の跡だというのは、飛躍があると思います。

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長篠合戦研究の最前線