小林は、患者を包み込むように第二の人生に誘う。回診後、小林は口惜(くちお)しそうに言った。
「いまの患者さん、生活動作もしっかりしていたでしょ。ご本人、腎臓移植を希望していたんです。でも、ドナーとつながらなかった。もしも移植できたら、いつでも好きなときにカントリーソングを六本木のライブハウスに聞きに行けますよ」
脳死したら腎臓を提供すると表明しているドナー希望者は少なくない。問題は医療体制だという。
「日本では、突発的な脳死の臓器提供に即応できる移植医が少ないし、手術を支える麻酔科、術後のICU(集中治療室)、入院管理の腎臓内科の支援力が弱い。医療は外科が花形に見えますが、総合力が重要なのです。まだまだですよ」
と小林は話しながら足早に次の病室へ向かった。
物腰が柔らかく、穏やかに患者に接する小林だが、妻の孝子(61)は「根は短気です」と言う。
「最近はアンガーマネジメントを覚えたらしく、怒りがわくと、家では自室にこもってから出てきます(笑)。夫は大阪生まれでわたしは東京。彼の大阪弁はユーモアがあって、とてもいいんです。なのに標準語を使いたがる。何言うてんのぉ、と叱られると腹も立ちませんが、何言ってるんだい、とか言われると冷たい感じでしょ。もっと大阪弁を使えばいいのに、と思ってます」
小林は、大阪のど真ん中、四ツ橋の近くにあった料亭旅館(のち廃業)に生まれた。お座敷から三味線の音が聞こえ、母は長唄の師匠、父は貿易会社も営んでいた。
旅館のぼんぼんは、小6のときに家庭教師の大阪大学医学部の学生からベートーベンの交響曲第5番「運命」と第8番のLPレコードをプレゼントされ、聴いてみた。「世のなかにこんなすごい音楽があったのか」とぶっ飛ぶ。クラリネットに魅せられた。家庭教師のように大学の交響楽団に入ってクラリネットを演奏したいと憧れる。
高校は府立の進学校、天王寺高校に進み、浜松医科大学に第1期生として入学した。浜松医大は新設されたばかりでオーケストラはなく、浜松の室内管弦楽団に入った。