自宅近くの公園で、目に入れても痛くない孫たちと過ごすひと時が最高のリラックスタイム(写真/倉田貴志)

 大学の医学部は、各診療科の教授を頂点に助教授(准教授)、講師、助手、研修医と、上意下達の強固なピラミッドで構成されている。

 小林は、博士号を取り、卒業後も大学病院の医局に残った。ピラミッドのてっぺんを目ざして臨床と研究に打ち込む。86年に友人を介して知り合った孝子と結婚し、翌年、長女が生まれた。妻と幼い子を連れてテキサス大学に留学する。

収賄事件に巻き込まれ アカデミアに愛想が尽きる

 小林を迎え入れた腎臓病理学の世界的権威、ベンカタッチャラム(愛称ベンケ・84)は、「勤勉で科学的好奇心が旺盛な修三は、自ら進んで腎臓病が移植や透析を必要とする末期段階に至るメカニズムの解明に努めました」と述べる。とくに助言はせず、「地位に関係なく、オープンな交流のなかで事実を語りなさいとだけ伝えた」と言う。ベンケ自身、南インドのケララ州で生まれ、米国で学問を究めている。その秘訣(ひけつ)を弟子に教えた。

 小林は米国留学中に次女も授かり、研究が波に乗った。そこにピラミッドの頂から「帰国せよ」と声がかかる。仕方ない、大学病院に戻って患者を診ながら研究に打ち込もうと思った。

 だが、いったん大学病院に復帰した後、次の赴任先に指定されたのは静岡県・伊豆の片田舎の病院だった。小林はキャリアを断たれて、茫然(ぼうぜん)とする。魂が抜けたような小林にベンケはぶ厚い3巻セットの自著にサインをして贈った。その3巻本は小林の宝物となる。

「修三は臨床分野の経験を広げなければならないとわたしも感じていた。だから励ました。彼の選択は正しかったのです」とベンケはふり返る。

民間では日本最大の病院グループ・徳洲会の旗艦病院の陣頭指揮を執る。小林の秘書・後藤順子は「院長は舞台の演出家のような周到さで皆を導く」と言う(写真/倉田貴志)

 小林は、アカデミアを出て、伊豆の病院に移り、「世のなか」への目をひらく。「ごみ屋敷」の独居老人を往診し、医療の現実を知る。救急患者の受け入れへと動いた。

(文中敬称略)(文・山岡淳一郎)

※記事の続きはAERA 2024年11月18日号でご覧いただけます

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