このように、活用範囲の広いライカをじっさい実用に使ったのは木村や名取をはじめ、渡辺義雄、堀野正雄、濱谷浩といった新しい報道写真の担い手たちだった。それに対して、新聞社や通信社など、既存の報道機関で採用されるのは遅く、その契機は36年の「2・26事件」だったといわれている。ただそれでも長く手札判以上のパルモスなどが主流だった。

 その理由については、32年7月号「新聞写真 未発表の撮影戦」座談会がヒントを与えてくれる。原板の小ささに不安があり、撮影枚数も多すぎて持て余すという発言があるのだ。これは起こった事実を一枚で的確に表す新聞写真と、複数枚による組み写真によって事実の経緯を多面的に物語るルポルタージュ・フォトが、報道という同じ分野にあっても違った思想に基づくことを示している。

あこがれのハワイ航路

 当時、ライカ作家として読者から最も人気があったのはパウル・ヴォルフ。躍動感をともなった明朗なカメラワークと、35ミリの原板から全紙への大伸ばしに最適な現像法を発見したことで知られるドイツの写真家である。35年に東京で「パウル・ウオルフ写真展」(東京朝日新聞社主催・日本工房提供)と「パウル・ヴォルフ・ライカ作品展」(ライツ社主催)を開催して大きな成功を収めた。本誌でも展覧会に合わせ10月号で「DR・PAUL WOLFF傑作写真集」が特集された。その解説に成沢玲川は、ヴォルフの作品は芸術的であり実用的、また作風の中庸さゆえに「永遠性」があるとし、「古い『芸術写真』も新しい『新興写真』もその使命を終えた」と宣告している。

 この時期の誌面は小型カメラブームによって、活動的なスナップ写真で彩られている。それを通して見えてくるのは、当時の都市文化やレジャーブームに、写真が強く密接に結びついていることだ。

 前者は木村が審査に当たった「都市美・都市醜の写真懸賞募集」(36年8月号)のほか、矢野修二の「冬の都会に取材を探る」(37年12月号)といった記事に表れている。また脚本家北村小松が原作を、金丸重嶺が写真を担当した、ミステリー仕立てのグラフ構成「連載小説 骰子」(36年1~3月号)なども都市の暗黒的な魅力をよく描いた。

 後者についても、実践的な撮影ノウハウや作例が繰り返し掲載されている。それは郊外へのピクニックから始まり、山野での野鳥の生態観察、登山、航空写真、各種スポーツなどと多彩である。具体的な撮影地ガイドが本誌に掲載され始めたのもこの時期からで、鉄道のほか普及し始めたばかりの自動車からの撮影術を教示しているのも興味深い。

 一般の読者にとって、夢のような特集も登場した。36年7月号の野島康三による「ワイキキの唄 布哇カメラ行脚」だ。野島夫妻が福原信三夫妻とともに訪れたハワイ旅行の記録を、16ページにわたって構成した、いわば観光ルポである。重厚な作風で知られた野島が伸びやかなスナップ写真を披露したことも、新鮮な印象を与えた。

 この30年代における観光ブームは、外国人観光客の誘致を目的とした国策から生まれている。鉄道省に国際観光局が設けられたり国立公園法が制定されたりするなど、観光インフラが整備されて、日本人の国内旅行も活性化した。

 誕生したばかりの報道写真の揺籃も、この観光政策だった。外務省系の国際文化振興会の協力によって、34年に日本工房から創刊された対外宣伝誌「NIPPON」には日本の文化的魅力をアピールする目的があった。その日本工房から早々に分かれた木村伊兵衛らが参加した国際報道写真協会は、国際観光局発行の観光用グラフ誌「TRAVEL IN JAPAN」の編集に携わり、37年のパリ万博では巨大な「日本観光写真壁画」の制作を担当した。さらに同年11月の木村による「日本を知らせる写真展」と、翌年それをまとめた英文写真集『JAPAN THROUGH A LEICA』(三省堂)も同様の目的をもっていた。

暗転

 さらにこの時期の誌面の特徴として挙げたいのは、学生写真家の登場回数の増加だ。このころ多くの私学や帝国大学に写真部が次々と誕生し、横断的な組織である全日本学生写真連盟も結成され、その盛り上がりは、中年層が主流だったアマチュア写真界に爽やかさを与えた。

 大学写真部のなかで有力だったのは慶應のカメラクラブ(KCC)と早稲田の早稲田写真会で、それぞれに百数十人の部員が所属し、両校の対抗写真展も行われた。ことに慶應にはライカやコンタックスを使うものも多く、野島康三や佐和九郎らを顧問に迎えて写真の質を高めていた。そこから在学中に写真工房を開き、指南書さえ執筆した原正次のような才能も育った。

 ともあれ絶頂期の本誌は若々しく華やいでいて、写真界の将来性も予感させる。その気分をより端的に知ってもらうには、37年3月に本誌提供で発表された流行歌、サトウハチロー作詞による「恋のプロフィル」の歌詞に触れるのが早道かもしれない。

「むねのレンズに いつよりか あの面影が やきついて いくらふいても 消えませぬ いっそシャッターを きりましょか」

 この甘く切ない曲が、どれほどヒットしたかは定かではない。結果を知る前に、この絶頂期は突如として終わりを告げたからだ。

 37年7月の盧溝橋事件と翌月の第2次上海事変から始まる日中戦争が、本誌の誌面を一気に変えた。事変以降の特集をみると、10月号「戦争」、11月号「決死従軍写真班 北支・上海を語る」、12月号「戦争写真物語」と並ぶ。戦場写真のグラフ・モンタージュや写真記者の体験談が大きく扱われ、無論、銃後のアマチュア写真家への指導的提言も掲載されはじめた。

 一方、多くの読者の気持ちは、39年版の『日本写真年鑑』(朝日新聞社)に唐澤純正が寄せた「アマチュア写真界の足跡」の冒頭に書かれているようなものであったろう。

「いい気になってカメラ片手に浮かれていると、いきなり後ろから、それこそ予期しなかった強力な手で、いやと云ふ程どやされた。それも一度ならず、二度三度と続け様に殴られた。そして当然、意識朦朧として茫然自失してしまった」

 以降、戦争が長期化するにつれ本誌の編集方針はより委縮し、積極的に国策に沿うようになるのである。

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