1936年12月号表紙。画家・藤田嗣治が登場。モノクロ写真に色彩を施したモダンな洒落っ気が目を引く。「アサヒカメラ」のロゴは上部が大胆にカットされている
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「最新型ライカD型」を宣伝する、東京・銀座の特約販売店の広告
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35ミリレンジファインダーの試作機「カンノン カメラ」の広告。潜水艦、飛行機とともに「世界一」を謳っている
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1935年10月号 DR・PAUL WOLFFの作品を傾向別に多数掲載
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1936年7月号 野島康三による優雅で美しいハワイ旅行
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1934年1月号 木村伊兵衛が撮影した文芸家たちの肖像。山田耕筰(左端)、林芙美子の顔も
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1937年10月号 特集「戦争」から。戦線で活躍するニュース・カメラマンを紹介している
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1937年10月号 戦意高揚が強調されたコラージュ。前線の兵士
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1937年10月号 戦意高揚が強調されたコラージュ。銃後の女性たちの姿
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「アサヒカメラ時代」来る!

『朝日新聞出版局史』によると、創刊時が7千部台だった「アサヒカメラ」の発行部数は、10周年を越えた1937(昭和12)、38年ごろ9万部台に達したとある。

 じっさい37年1月号「昭和十二年を迎へて 本誌発行部数の驚異的飛躍」には、33年以降、毎年50~60%の伸び率を記録していること、掲載広告も記録的に増加したことが報じられている。この実績を背景に筆者は、「今や全く『アサヒカメラ時代来る』の観を呈するに至ったのであります」と得意げだ。確かに、部数と内容とも、この時点がひとつの絶頂だった。

 この成功に導いたのは、3代目編集長の松野志気雄である。松野は25(大正14)年、早稲田大学在学中に東京朝日新聞社に入社。成沢玲川のもとで「独逸国際移動写真展」などに携わった後、33年7月号から編集を任されると、より娯楽性に富んだ大衆路線を推し進めた。誌面に漫画や小説的なグラフ構成を取り入れるほか、先端の芸術論だけでなく、体験談や座談会など写真家の生の声を積極的に紹介した。さらに別冊付録や、安価な増刊号(季刊)の発行など新企画を打ち出している。

 もっとも本誌だけが順調だったわけではない。すでに大小合わせて20以上の写真雑誌が発行されていて、その多くが初心者を対象に成果を上げていた。つまり写真趣味のすそ野自体が急速に拡大していたのだ。

 背景には昭和恐慌からの経済回復があった。高橋是清蔵相の主導する為替切り下げによる輸出増、低金利と財政出動による景気刺激策が奏功したのだった。重工業に大きな発展がみられ、自動車会社など新しい産業も誕生した。写真関係では、34年に富士写真フイルム(現・富士フイルム)が設立されている。

 なにより写真趣味に決定的な影響を与えたのは、カメラの小型化と感光材料の進化だった。小型カメラは、すでにヴェスト判の各種カメラに一定の人気があったが、フィルムの感光・感色性能やレンズの描写力も貧弱で、新興写真ブーム以降の精密な描写を求める声に応えられない。そこで注目されたのが、ドイツのライツ社製のライカだった。

 最初のライカA型が発売されたのは25年で、本誌ではすでに創刊年から広告が掲載されている。だが固定レンズであることや、映画用の35ミリフィルムという原板の小ささからアマチュア写真家は好まず、記事でもあまり取り上げられていない。

 だが30年のC型からレンズ交換式となり、2年後のD型でレンジファインダーが採用されたことで活用範囲が広がった。さらに、このころ映画用フィルムが改良されてパンクロマチック(全色感光)になり、トーキー化にともない微粒子現像の技術が発達したことで高画質な印画が得られるようになり、一気に人気を得た。

 さらにライカの後を追うように35ミリのコンタックスI型(32年)などの高性能機種が登場したことで、小型カメラブームが訪れた。そんな折、佐和九郎らが35年8月号に執筆した「『ライカ』と『コンタックス』とどちらがよいか?」はさらに人気を煽って、長きにわたるライカ・コンタックス論争の突端となった。

 同時に日本でも小型カメラの可能性が模索され始めた。たとえば精機光学研究所(現・キヤノン)による35ミリレンジファインダーの試作機「KWANON」の広告が掲載されたのは、34年6月号のことである。

 本誌でライカが特集されたのはその前年、33年10月号の「特集小型カメラ写真術」が嚆矢である。そのうち「ライカ写真術」の項を執筆したのが30年にA型を購入して以来、そのメカニズムを研究し尽くしていた木村伊兵衛だった。彼はまず自信に満ちて「ここ数年間はライカカメラを凌駕する程の、精巧にして堅牢、又多面的なカメラは現れないでせう」と前置きしてから、2号にわたり扱い方を解説した。

 ちなみにこの時点でのライカの値段はC型がおよそ300円、D型で420円と極めて高額。その値段にふさわしいことも、木村が実作によって立証したのである。

報道とスナップ

 木村がライカ使いとして手腕を発揮し始めるのは、32年創刊の同人誌「光画」からと見てよい。同誌は木村のほか野島康三、中山岩太という個性的な実作者と、2号から参加した先鋭的な評論家の伊奈信男という同人に加え、多彩な実作者や理論家が寄稿したこともあって写真界の耳目を集めた。

 木村は同誌で、近代化されてゆく東京の、庶民の日常的な暮らしをスナップした作品を相次いで発表した。そこにはモダンデザイン的な感覚で都市空間を切り取った新興写真とも違う、リアリティーの追求があった。木村の志向は、創刊号に掲載した「工場地帯」を指して野島に放ったという次の言葉からもうかがえる。

「ここに人間が住み、ここには人間の赤裸々な生活がある。これが本当の写真だ」(『フォトアート 臨時増刊 木村伊兵衛読本』研光社 56年)

 木村の実作を、理論面で補完したのは伊奈である。創刊号に掲載された論文「写真に帰れ」で、彼は機械の目を通して生まれる新しい写真芸術は「その人間の属する社会世界の断面であり、自然世界の一般事象以外にはあり得ない」とし、そうした写真を「現実写真(レアール・フォト)」として位置づけている。

 33年のヒトラー政権の誕生で、ドイツでルポルタージュ・フォトの仕事ができなくなり帰国していた名取洋之助もまた、木村や伊奈の活動に注目していた。彼には、ある構想があった。海外に向けて日本を紹介する写真の配信などの版権業務と、写真を使った印刷物の制作のための組織を立ち上げることで、そのために必要な人材だと考えたのである。

 そこで2人に加えて図案家の原弘など「光画」に集った人々を誘い、名取は同年8月に日本工房を立ち上げた。そのさい伊奈が、日本にはなじみの薄い組み写真をもとにしたルポルタージュ・フォトを「報道写真」という言葉に置き換えている。

 日本工房は、彼らの掲げる報道写真を実例で示すため、12月に銀座で木村の「ライカによる文芸家肖像写真展」を開催した。展示された二十数名の作家や評論家らの肖像写真は、顔に強く照明を当て一瞬のナチュラルな表情を切り取ったもので、ローキーに仕上げられていた。それは写真館で撮られるのとはまるで異質な表現であった。木村自身「この文芸家の肖像写真は、従来の肖像写真への対決」(『木村伊兵衛読本』)と位置づけ、被写体の性格描写に取り組んでいた。本誌34年1月号にも掲載され、木村の技量とライカの性能が全国の読者に広く知られた。

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