
研修の形で来日した「国民的英雄」
その五輪連覇にも貢献した国民的英雄の内野手、オマール・リナレスが中日に電撃入団したのは2002年。プロ契約ではなく、「国家公務員という立場で日本の野球技術を学ぶ研修派遣」という形だった。年俸はわずかに約600万円で、「キューバ政府への協力金」とされた。
リナレスは当時34歳でキューバでは現役引退していたため、中日の在籍期間で見せたパフォーマンスは全盛期の姿には程遠かったが、NPBでプレーするキューバ出身選手の「先駆者」的な存在となり、引退後も中日の巡回打撃コーチ兼通訳を務めた。
その後、キューバの野球事情は変化した。00年代にメジャーを目指して野球選手の亡命が相次ぎ、代表チームが弱体化したこともあり、13年には通商関係がある国での野球選手のプロ契約が認められた。日本はこれにあたる。米国の球団と契約できるようになったのは18年からだ。
日本とプロ契約が認められるようになってから最初のキューバの選手は、14年に巨人に入団したフレデリク・セペダ。そこからキューバの現役選手が日本で活躍するようになった。
契約の窓口はキューバ政府
それでも他の国の選手と異なる点はまだ多い。キューバ出身選手の通訳を務めた球界関係者がこう語る。
「契約は政府が窓口になり、選手個人に年俸は入りません。キューバ政府から支払われることになります。配分は選手が3、4割ぐらいみたいですが、詳しいことはわかりません。彼らは答えたがりませんから」
キューバの選手は、自分の意思で自由に移籍できない。そのためもあって、プロ契約が認められるようになった後も、政府による介入を拒否して亡命する選手は後を絶たない。
一昨年まで中日でプレーしていたジャリエル・ロドリゲスは昨年の開幕直前に亡命し、ドミニカ共和国に入ったと報じられた。現在はメジャーのブルージェイズでプレーしている。ちなみにビシエドも、19歳のときにキューバからいかだに乗って命がけで米国に渡り、亡命した選手だ。