夏の甲子園大会が始まり連日熱戦が続いている。毎年プロ注目の逸材も多数に上り、“〇〇2世”などのように、かつての名選手にあやかった呼称で呼ばれる者もいる。その中から、コアなファンの記憶に残る“伝説”の凄い選手たちを紹介する。
チームの大先輩にちなんで“王2世”と呼ばれたのが、早稲田実の1年生・阿部淳一である。
調布シニア時代に投打二刀流で日本一になった阿部は、1978年春、早実に入学すると、6月のセンバツ出場校・印旛との練習試合で110メートルの特大弾を放って注目された。
夏の東東京大会決勝戦では、帝京に4対10とリードされ、敗色濃厚の7回、2点を返し、なおも1死一、三塁のチャンスに代打で登場した阿部は、1点差に迫る3ランで一気に流れを変え、奇跡的な大逆転劇をもたらした。
当時帝京の2年生部員だったタレントの石橋貴明は「『あれっ』ていう間にピンポン玉のように打球が飛んで、神宮のライトスタンド上段に突き刺さっていましたね」(「高校野球熱闘の世紀Ⅱ」ベースボールマガジン社)と回想する。
漫才コンビ・ツービート結成後、当時まだ売れていなかったビートたけしも「漫才が嫌になって、辞めようと事務所に内緒で神宮に見に行っちゃった」この試合で、阿部の本塁打を目の当たりにし、「これが1年かよ」と度肝を抜かれたという。
そして、甲子園でも、阿部は1回戦の倉吉北戦に6番ライトで出場し、試合は敗れたものの、安打を記録。新チームでは投打の中心として、さらなる活躍が期待されていた。
だが、翌79年1月14日、友人のバイクを借りて、自宅近くの街道を80キロのスピードで走行中、運転を誤って事故死。前月、16歳になったばかりだった。
新チームは前年秋の都大会1回戦で修徳に4対6で敗れ、5季連続甲子園出場ならず。例年ならセンバツ出場に備え、練習に明け暮れている時期だったが、予選敗退により、時間に余裕ができ、バイクの免許を取ろうとしたことが、結果的に悲劇につながった。