早実は80年夏の甲子園で、1年生・荒木大輔(元ヤクルトなど)の快投で決勝に進出したが、愛甲猛(元ロッテなど)の横浜に敗れ、準優勝。当時「もし、このチームに4番・阿部がいたら……」と思いを馳せたファンも少なくなかった。
77年夏の甲子園準優勝投手、東邦・坂本佳一にちなんで、“バンビ2世”と呼ばれたのが、91年に坂本と同じ1年生右腕として東邦を甲子園に導いた水谷完だ。
「一緒に全国の夢を見よう」と阪口慶三監督に誘われ、同校に入学した水谷は、1年夏に背番号10でベンチ入り。チームは県大会決勝まで勝ち進み、水谷も初先発初登板の5回戦、西尾実戦で8回を1失点に抑えた。
決勝の相手は、準決勝まで打率7割2分をマークした鈴木一朗(イチロー)が4番を打ち、3季連続甲子園を狙う愛工大名電だった。そして、この大事な一戦で、阪口監督はなんと、水谷を先発に指名した。
本人も「まさかと思った」そうだが、おとなしそうな外見とは裏腹にマウンド度胸は満点。初回にいきなり無死一、二塁のピンチも、カウント1-2からエンドランを仕掛けてきた3番打者を空振りさせ、三振ゲッツーに切って取る。さらに4番・鈴木を敬遠後、次打者を打ち取り、無失点に切り抜けた。これで流れは一気に東邦へ。その裏、2点を先制すると、2回にも満塁本塁打などで5点を加え、序盤で試合を決めた。
大量援護でリズムに乗った水谷は、4回に鈴木を併殺打に打ち取るなど、3打数無安打に封じ、終わってみれば7安打6奪三振の完封勝利。後の天才打者・イチローも「1年生投手だったので、力んでしまった。水谷君は度胸のいい投球だった」と脱帽するばかりだった。
この快投で“バンビ2世”の呼称もすっかり定着。甲子園ではあと1勝に迫っていた愛知県勢の夏通算100勝に挑戦したが、初戦の宇部商戦で、0対0の6回2死一、二塁、前進守備が裏目に出る不運な決勝タイムリーを許し、惜しくも敗れた。
翌92年夏は、甲子園で登板1試合に終わったものの、ライトを守り、4番としてチームの4強入りに貢献した。