今年春、東京・渋谷の大盛堂書店2階に燃え殻のサイン本を集めたコーナーが開設されていた。自著ばかりが面陳列される様をみて「嬉しいですよね」。店員としばし、最近の注目本について情報交換(写真:今村拓馬)

「母が死ぬのがショックで、嫌で。“母さんが死ぬのが嫌だ”って泣いていました」

 脱毛症状は数年後に治ったが、中学、高校ではクラスになじめず一人で過ごす時間が多かった。親に大学受験を勧められ2浪するも叶(かな)わなかった。

 未来に希望が見いだせなかった頃、始めたことがある。一つはラジオ番組への投稿だ。「ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン」や「鶴光の噂のゴールデンアワー」などでは時々放送で紹介された。ラジオ好きが高じて、DJ風に曲をかけながらトークする自分の声を、父親の小型レコーダーに録音したこともあった。

 中学・高校では、B4サイズの紙で新聞を作り、ほぼ毎日教室に貼っていた。学校の行事などを書き連ね、先生を題材にした4コマ漫画を描いた。誰からも褒められず、いつも破かれていた。

 高校時代からは、「週刊朝日」の「山藤章二の似顔絵塾」へ投稿を開始。20歳の頃、94年の1年間をみても、竹中直人、タモリ、イチローなど少なくとも7回掲載されている。発売日の夜中12時にコンビニに行き、荷ほどきしたての雑誌をチェックし、掲載されているとガッツポーズした。

「当時は気づかなかったけど、これ全部逃避だったと思いますね。置かれた現実が嫌で、そこから目をそらしたかった。だから投稿したり、新聞つくったりしている。生きるために、命からがら見つけた“命綱”だった。とくに投稿して山藤さんやラジオ番組に採用されたことは、“君、面白いよ、生きてていいよ”と言われたみたいで」

 命綱に救われた燃え殻は、人生を投げないで必死にもがいた。専門学校の宣伝関係コースへ進むも、講師陣のやる気のなさに落胆。だがCMの絵コンテを描く課題をだされた時、まったく評価されなかった。低レベルの学校なのに俺って駄目だなとヘコむが、気を取り直して量で勝負だと毎回50点提出した。すると講師にやる気が伝わり、描くコツもつかめた。「お前の作品の中では、今回のはいちばんよかったな」という一言が嬉しかった。

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