同校の養田晋一監督は「最後の大会というプレッシャーを支えきれなかった僕の責任。最後まで試合をさせてあげたかった」と悔やみながらも、「彼らが必死になってやっている姿は感動しました」と語っていた。

 ベンチに控え選手が残っていたのに、負傷したのが守りの要のキーマンだったことから、断腸の思いの没収試合となったのが、94年の荒川商だ。

 東東京大会1回戦、羽田工戦、部員11人で出場した荒川商は、3回2死二塁、中前安打で本塁を突いた二塁走者とクロスプレーになった際に、センターからの返球がそれ、捕手・木村武雄ののどを直撃した。

 試合を中断して応急処置を行い、何とかスリーアウトまで漕ぎつけたが、その後、容態が悪化。4回の攻撃中、木村は唾も飲み込めないほど痛みが激しくなり、救急車で病院に搬送された。

 この時点でベンチに2人の控え選手が残っていたので、交代すれば、試合続行は可能だった。だが、前年秋は部員わずか2人で、都大会も出場辞退するなど、野球をほとんど経験していない部員が多数を占めるとあって、守備の要である捕手の穴を埋めるのは、あまりにも荷が重過ぎた。

「(控えの)2人は技術的に未熟で、試合に出るのは危険。さらにけが人を出すわけにいかない」という高山昭彦監督の判断で試合続行を断念。荒川商はこの回に2点を返し、スコアは2対34だったが、夏の都大会初の没収試合で0対9の敗戦となった。

 この結果、羽田工も大量34得点を記録しながら、本塁打を含む24安打のすべてが幻と消えた。

 チームの大黒柱が試合中に両足をつり、交代可能な控え選手もいない。そんなあわや没収試合の危機を回避したばかりでなく、試合にも勝利したのが、19年の都大島だ。

 東東京大会2回戦の明大中野戦、大島は5回までに3対0とリードしたが、変則フォームから140キロの速球を投げるエース兼主将の荒田奏斗が打席中に両足をつり、チームメイトに抱えられながら退場するアクシデントに見舞われた。

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