日露戦争・日本海海戦は世界の海戦史上でも例のない完勝だった。それは徹底した砲撃訓練戦術の研究、火薬や信管の開発など入念で周到な準備に支えられた連合艦隊がもたらしたものだ。世界が驚嘆した日本海海戦における日本の秘策を4回にわたって解説する。最終回の4回目は「歴史的勝利と講和条約」。(『歴史道』Vol.33「日清・日露戦争史」より)
歴史的勝利と講和条約
「ニコライ1世」の降伏旗を見た「アリヨール」「アブラクシン」「セニャーウィン」も軍艦旗を降ろし、降伏旗を掲げた。そして連合艦隊の秋山真之参謀が旗艦「三笠」の艦橋で、敵艦に降伏旗がひるがえっているのを発見したのは五月二十八日午前10時40分ごろだった。
秋山は東郷平八郎大将に言った。
「長官、敵は降伏しました。わが艦隊の発砲を止めましょうか?」
だが東郷は敵方を睨んだまま黙然としている。秋山は詰め寄るように言った。
「長官、武士の情けであります。発砲を止めて下さい!」
東郷は冷然と言った。
「本当に降伏すっとなら、その艦を停止せにゃならん。現に敵はまだ前進しちょるじゃなかか」
事実ロシア艦は航進を続けているだけではなく、大砲の筒先も日本の艦隊に向けたままである。
一方、降伏旗を掲げたにもかかわらず、どの日本艦も攻撃を止めない。そこでネボガトフは日本の国旗を掲げ、次いで機関の停止を命じた。東郷が全艦艇に攻撃中止を命じたのは、この直後であった。
水雷艇「雉」が呼ばれ、東郷は秋山参謀と山本信次郎大尉(通訳兼)を敵の旗艦「ニコライ1世」に行かせた。降伏の手続きを取るためネボガトフ少将を「三笠」に呼ぶためである。
ネボガトフ少将は秋山真之中佐の申し入れを承諾し、礼服に身を改め、幕僚とともに上甲板に総員を集め、降伏にいたった経過を話し、「諸君はいっときの恥を忍んで、将来祖国の海軍を再建していただきたい。降伏の責任は予が一身に負う」と、諭すように語りかけた。
ネボガトフが7、8名の幕僚をともなって「三笠」に到着したのは午後1時37分だった。もう一人の指揮官、重傷を負って駆逐艦「ブイヌイ」に収容されているロジェストヴェンスキー中将は、駆逐艦「ベトウイ」に移されていた。「ブイヌイ」の石炭が欠乏し、機関も故障続出でウラジオストクまではたどり着けそうもなかったからである。その「ベドウイ」も午後4時45分、駆逐艦「陽炎」と「漣」に追われ、白旗を掲げた。重傷のロジェストヴェンスキーは日本艦で長崎県佐世保の海軍病院に送られていった。