東京都健康長寿医療センターの敷地内にある渋沢栄一の銅像
東京都健康長寿医療センターの敷地内にある渋沢栄一の銅像
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 3日、新紙幣が発行され、1万円札の肖像画が福沢諭吉から渋沢栄一に、5千円札は樋口一葉から津田梅子に、千円札は野口英世から北里柴三郎に。紙幣のデザイン変更は2004年以来、20年ぶり。1万円の「顔」が変わるのは、聖徳太子から福沢諭吉に切り替わった1984年以来のことだ。そんな新紙幣の顔「渋沢栄一」にまつわる人気記事を振り返る(「AERA dot.」2021年12月26日配信の記事を再編集したものです。本文中の年齢等は配信当時)。

【写真】新千円札の顔となるのは「一家に一匹猫を」を提唱したこの人

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『戦国武将を診る』などの著書をもつ産婦人科医で日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授の早川智医師が、歴史上の偉人や出来事を独自の視点で分析。今回は、NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一(1840~1931年)を「診断」する。
 

 勤務先の近くに東京都健康長寿医療センターがある。以前、共同研究の打ち合わせで伺ったときに、正門近くに日本の資本主義の父・渋沢栄一の銅像があった。

 いくら渋沢翁が長寿だったとはいえ、この病院と何の関係があるのかと思って碑板を見ると、渋沢栄一が長く、健康長寿医療センターの前身である養育院の院長を務めた功績を讃えたものであった。

財を成す人も困窮する人も

 明治維新という大改革で、幕府は瓦解、旗本御家人のみならず諸藩の武士も失職、江戸幕府体制の中で農商工業に従事していた人々も、渋沢のように財を成す人もいれば困窮する人もいた。首都・東京の困窮者、病者、孤児、老人、障害者を保護する目的で明治7年に養育院が設立された。

 しかし、その源流は幕府時代にさかのぼる。

 養育院を設立した東京府知事大久保一翁(忠寛)は、旧幕府の目付であったときに西洋風の・幼院・病院設置を幕府に進言、手元不如意であった幕府は、さらに遡って松平定信が定めた貧民救済資金「七分積金」を基金とし、これが明治になって「営繕会議所共有金」として残されていた。

 大久保からこの資金の運用を任された渋沢は、当初、養育院事務長として1890(明治23)年、東京市営となると、養育院長となって91歳で亡くなる昭和6年まで半世紀にわたって院長を続けた。明治29年にはエドワード・ジェンナーの種痘発明100年記念式(善那氏種痘発明百年記念会)の発起人となり、予防接種普及のため東京市に多額の献金をしている。

 もちろん、その間に、第一国立銀行(現・みずほ銀行)の創立、全国の中小銀行の設立と支援、抄紙会社(現・王子ホールディングス、日本製紙)、東京府の瓦斯掛(現・東京ガス)、東京海上保険会社(現・東京海上日動火災保険)、日本鉄道会社(現・東日本旅客鉄道)、東京電灯会社(現・東京電力ホールディングス)、大阪紡績会社(現・東洋紡)などなど、500を超える企業の設立や運営に貢献した。

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早川智

早川智

早川智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に戦国武将を診る(朝日新聞出版)など

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