NPBのシーズン最多登板記録は、1961年に西鉄・稲尾和久が達成した78試合が長い間、不滅の記録だったが、05年に阪神のリリーフエース・藤川球児が「80」に更新。そして、07年に前人未到のシーズン90試合登板の金字塔を打ち立てたのが、藤川、ウィリアムスとともに阪神最強のリリーフトリオ“JFK”を構成した久保田智之だった。
【写真】阪神が断った! 来日のプランがあった「超大物助っ人」はこちら
07年、前年の抑えからセットアッパーに回った久保田は、シーズン初登板となった開幕2戦目、3月31日の広島戦で、2対2の6回から能見篤史をリリーフ、2イニングを無失点に抑え、勝利投手になった。チームも4月3日の時点で3勝1敗と白星が先行し、巨人、中日とともに首位で並んでいた。
だが、左のエース・井川慶がヤンキースに移籍、前年二桁勝利の安藤優也、福原忍も故障で出遅れるなか、先発陣が手薄なチームは、4月28日から5月9日にかけて9連敗し、一気に最下位転落。5月末の時点でも、首位・巨人に7.5ゲーム差の5位と低迷した。
5月19日の横浜戦で、杉山直久が開幕から41試合目でチーム初完投という一事からも、いかに先発陣が頼りなかったかがわかる。同年の阪神の先発投手の平均投球回数は、5回に満たず、12球団でワーストの4.96だった。
当然JFKを中心にリリーフ陣への負担は増大し、開幕から4月末まで26試合で13試合登板だった久保田も、チームが苦しい時期の5月は、24試合中15試合に登板。5月3日の横浜戦、同4日の広島戦は、いずれも2点ビハインドながら、「行かなしゃあない。リードする展開にならんから」(岡田彰布監督)と2日連続の投入となった。
だが、交流戦終了時点で、首位から12ゲーム差の4位だった阪神は、セの公式戦が再開されると、6月30日から7月31日まで6連勝も含めて16勝6敗と一気に上昇気流に乗る。
快進撃の陰で、リリーフ陣への負担も一層苛酷になった。6月は12試合登板だった久保田も、7月は15試合、8月には月間最多タイ記録となる17試合に登板。開幕からの登板試合数も、8月31日のヤクルト戦で72試合目となり、2年前の藤川の記録まで残り29試合であと「8」に迫った。岡田監督も「記録は作らすよ。ここまで投げて作らせんかったら、失礼や。元気やから大丈夫!」と太鼓判を押した。