「議論があって、ああなった、ってことなんです。これはぜひお伝えしておきたいです」
ここで時計の針を戻し、少年時代の武田に会いに行く。彼は地元・熊本で、何かを表現することを模索し続けていた。県立熊本高校で級友となった児成剛(57)は、武田と共にバンドを組んだ。
「1年の秋の文化祭で、先輩がRCサクセションのコピーバンドをやっているのを見て、『かっこいいな、やるか!』って」(児成)
縦ノリのラインナップ 文化祭本番は舞台で弾けた
翌年の文化祭に向け、武田、児成を含む4人は、パンクロックバンドを結成。部活後、近所の貸しスタジオで練習に明け暮れた。児成は振り返る。
「僕はボーカルで、武田君がギター。4人で激しい音楽をやって、ちょっと脚光を浴びたいなという安直な考えがあったと思うんです」
「ザ・クラッシュ」「ザ・スターリン」「セックス・ピストルズ」。縦ノリのラインナップだ。
「武田君は『お前たちが決めた曲でいいから』って。おとなしくて、一歩引いた感じ。ただ楽しそうにしていましたよ。『ついていきます』って」
そんな児成が驚いたのは、文化祭本番だった。おとなしいと思っていた武田は、舞台で弾けていた。武田のギターと、アンプを繋ぐケーブルが短すぎて、前に出すぎた武田が思わずアンプ装置を倒してしまった。これに腹を立てたPA業者が、電源を切ってしまい、音が出なくなってしまった。
「武田君も僕も『なんで電源がこないんだ!』。マイクが使えなくなっちゃったので、僕は黄色いメガホンを使って歌っていました」(児成)
筑波大へ進み、卒業が近づく頃、武田は広告代理店を第1希望に見すえ、就職活動を始めた。
「糸井重里さんなど、コピーライターという職業が生まれていた。クリエイティブになれるかなと」
絵が描けるわけでも、音楽が飛びぬけて上手なわけでもない。でも、言葉ならいけるかも。そんな折、NHKを受験する友人に誘われ、試しにディレクター職希望の書類を出した。そうしたら、アナウンサーで内定が出た。意外な展開に驚いた。
「言葉で表現する、って意味ではコピーライターと同じ。自分の肉体で表現できる」
武田アナウンサー誕生の瞬間だった。
熊本、松山放送局で実績を積み、東京アナウンス室へ。駆け出しの頃は失敗ばかりだったと苦笑するが、東京での彼にドジキャラの印象はない。
「一所懸命、間違いのないように読んでいました。石橋を叩(たた)くように。間違えずに伝えていく」
正午のニュース担当に武田が抜擢された。当時の日々のことを妻・陽子は鮮明に覚えている。
「どんどん責任が重くなり、プレッシャーが大きくなって。私は赤ちゃんの夜泣きで寝られないときで、彼はカバーする範囲が広い昼のニュースを担当。世界中で何が起きても全部やるから、ピリピリしていました」