中田は経済的理由で進学できない農村の青年を対象に、40~50名の学級を編成して、選書をした図書群を供給し、読書指導をすることを始める。これは3年間のコースだった。
石川県立図書館には、この学級に参加した人々の手記を収めた『読書に生きる人々』という書簡集が蔵書されているが、その中で参加者の一人川村輿之はこんな文章を寄せている。
〈私は、小学校を卒業し、上級の学校に進まんとする意志に燃えながらも、家庭の事情の為に断念のやむなきにいたりました。そこで、独学を以て精進せんとせしも、良き書を手にし得る十分な機関も具はらず、良き指導者はもとより無く、学ばんとして学び得ず、我心はたゞもだへて居つたのであります。この時、先生の読書学級御計画の趣意を聞きました時は、全く「地獄で仏」とはこの事ならんと喜びました〉
このように、学ぶ機会を断たれた石川の農村の青年たちにとっては、中田が主導する農村への図書の供給と読書学級は得難い機会となった。
石川県立図書館で司書を務める河村美紀は、移転前の旧図書館時代に、読書団体のリーダーを務める老人を、「中田先生に農村で読書指導をうけた人物」として紹介をされたことがある。
この中田の「読書の風」運動は、全国に波及していくことになるが、同時に日中戦争が始まり言論統制が厳しくなっていくなかで、大政翼賛会運動に組み入れられていく。
戦後には、選書をして読書指導をすること自体が、「国家的な思想誘導だった」と批判的に捉えられるようになっていくのである。
明治大学教授の松下浩幸などの研究で、そうした経緯を知っていただけに、当の中田は、大政翼賛会に自分が起こした運動が組み入れられていくことをどう考えていたのだろう、と県立図書館の「調べものデスク」の司書の杉井さんに、相談をしたのである。
すると、中田自身が日本図書館協会の罫紙にしたためた「大政翼賛会中心の読書指導運動の行詰り」というメモが古文書として所有されているという。他の古文書とともにそれを出してもらって、「貴重資料閲覧室」で見ることになったのが、冒頭のシーンということになる。