ロッテ時代のクルーズ(写真提供・千葉ロッテマリーンズ)
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 NPBでプレーする外国人野手は、一発長打が売りのパワーヒッター、またはアベレージを稼げる中距離打者のように打力優先のイメージが強いが、中にはディフェンス力を買われて来日した守備型助っ人もいる。

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 MLBでも守備の名手として長く活躍し、来日後は選手兼任で守備コーチも務めたのが、大洋のクリート・ボイヤーだ。

 ヤンキースで7シーズンにわたって正三塁手を務め、ブレーブス時代の1969年にゴールドグラブ賞を受賞したボイヤーは、球団と対立し、71年に自由契約になったが、「まだまだやれることをアメリカ中に見せたい」と、独立リーグのハワイ・アイランダーズを経て、72年に大洋入り。

 当時35歳と年齢的にピークは過ぎていたが、”守りの助っ人“の名にふさわしい堅実な守備は、「強い打球をまるで平凡なゴロのようにさばいてしまう。ああいう真似は天下の長嶋(茂雄)でもできないね」(週刊ベースボール72年3月20日号)と青田昇ヘッドコーチを脱帽させた。

 その言葉どおり、73年は長嶋と同票でダイヤモンドグラブ賞を分け合い、翌74年は単独で2年連続の栄誉を手にした。当時の大洋内野陣は、一塁・松原誠、二塁にハワイアイランダーズのチームメイトだったジョン・シピン、三塁・ボイヤー、遊撃・米田慶三郎と12球団でもトップクラスの布陣を誇っていた。

 また、当初はあまり期待されていなかった打撃も、72年に打率.285、18本塁打、51打点を記録するなど、主に6番打者としてチームに貢献した。

  さらに現役引退後の76年も内野守備コーチとしてチームに残り、実質ヘッドコーチとして夏以降は采配も担当。その後、次期監督候補にもなったが、コーチの人選などで球団側と折り合わず、“幻の監督”に終わっている。

 ボイヤーとほぼ同時期に中日に在籍したバート・シャーリー(登録名・バート)は、“守備特化型”と言えるほどの守備型助っ人だった。

 1971年、ドジャース、メッツ時代に堅守でならした経験を買われ、遊撃手として入団。当時の助っ人では珍しく、来日後に日本語を勉強し、キャンプでナインと合流したときに「ドウゾ、ヨロシク」と覚えたての日本語で挨拶した。

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高木守道も「とても真似できない」と唸った守備力