2023年7月1日、「実業団・学生対抗陸上競技大会」で12秒92、2位。レース前は一緒に走る選手と大声で話し笑っていた。これは緊張をほぐす方法。緊張は頑張ろうとしている証拠と認めることが大切とも(撮影/今祥雄)

体重の増加が怖く 拒食と過食を繰り返す

 それでも高校卒業後は、福島千里、北風沙織といったトップスプリンターが所属していたクラブチーム、北海道ハイテクACに入る。北海道恵庭北高校陸上部に在籍中、寺田にハードラーとしての適性を見いだした名伯楽・中村宏之が、当時ハイテクAC監督を務めていたからだ。寺田は「オリンピックに行きたい」という思いが強く、その選択に後悔はなかった。

 初年度から結果をだした。日本選手権3連覇、翌年は世界ジュニアランキング1位。ロンドンオリンピックはほぼ射程に入ったと思われた。

 ところが2011年3月の沖縄・石垣島合宿で暗転する。トレーニングの一環でサッカーを楽しんでいた時、踏み切る右足を捻挫したのだ。回復が思わしくなく練習もままならない。結果、ロンドンオリンピックの出場を逃してしまう。そのショックなのか心身のアンバランスを招く。成長期の影響でふっくらし始めていたが、体重増の恐怖から摂食障害になる。少し太ると吐いたり下剤を飲んだり。すると身長168センチで約51キロだった体重が45キロ前後に。反動で過食になり2週間で58キロに。体重の乱高下を繰り返した。

「肌はボロボロで、生理もこなくなりました。栄養状態も悪いので骨折してしまって。摂食障害、無月経、骨粗しょう症。女性アスリートが注意するべき三主徴を不名誉にもコンプリートしてしまいました。もう練習どころではなかったですね」

 クラブの同僚に相談しようにも、みな自分のことで精一杯の様子。立て直せないまま13年の日本選手権を迎える。結果は屈辱の予選落ち。直後、母親に電話をしている。「もう無理だわ」。泣いていた。「今まで頑張ったね、ご苦労さま」という母親の声を聞いた後、監督の中村を訪ね、「責任をとってやめます」と言い残しクラブを去った。

「あの頃は、スポーツは勝たなければ意味がないものという認識でした。自分にとってのスポーツの意味ってその程度でした。勝てなくなって、気持ちが折れちゃったんですね」

 23歳といえば陸上選手としてはもっとも脂がのる時期。が、陸上に未練はなかった。

「23歳ならば、これから大学に入っても新卒とあまり変わらず社会にでられるかもしれない」

 引退から3カ月後の10月に上京。簿記の資格も取得していたので、スポーツマネジメント会社で経理などの仕事をしつつ、大学入学の準備をしていた。そうこうするうちにおなかに新しい命を宿す。その父親で、当時日本陸上競技連盟の職員だった佐藤峻一(40)と、翌14年3月に結婚した。

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