2023年10月9日、小学生向けの「調布市ジュニア陸上体験教室」で講師を務める。最初は表情が硬かった参加者だが、次第に活発に。「私が子どもなので一緒に遊んでもらう感じ」と寺田(撮影/今祥雄)

 当時は大学最終学年。練習で疲れた体にむち打って、合宿所で夜遅くまで卒論を書いている姿を村上は覚えている。心配になった村上は「もう寝なよ」と言っても、プロテイン飲料を流し込みながらキーボードをうっていたという。

 12月には日本代表練習生になり、翌年からは月の8割を合宿に費やす日々が始まる。選手としては充実していたが、母親としてはつらい思いもした。村上によると、「タックルの痛みより、子どもと一緒にいる時間が短い方がキツい」と泣いていたという。当時2歳半の娘・果緒(9)には「ママの仕事はラグビー。私の仕事は保育園。泣かないで」と言われていたが、厳しかったのだ。

 それでも猛練習を積みトライを何度も奪えるようになっていた。だがその矢先、17年5月、公式戦で相手選手と交錯し右足腓骨(ひこつ)を骨折。治癒はしたが、半年のブランクは大きく、練習に戻ってもついていけず、オリンピックは無理だと悟る。

ハードルはタックルしない ラグビーで恐怖がなくなる

 しかし、寺田はある手応えを掴(つか)んでいた。

「走るのがすごく楽しく好きになっていたんです。しかも速くなっている。今やらずに後悔することは何かと考えた時、それは陸上に戻ることだと」

 その直感は正しいのか。寺田は複数の人に確かめた。ラグビーのトレーナーは「ありじゃないですか」。恩師の中村にも聞こうと北海道に飛んだ。18年10月のことだ。中村と一緒に寺田の走りをみた、元チームメートの北風(38、前出)は、「一歩一歩が地面に伝わる力、推進力がすごく強くなったな」という印象を受けた。肝心の中村は……。

「30歳前だったらいけるかもな。ただ、オリンピックは無理だぞ。そんな甘いもんじゃない」

 陸上復帰の意思を固めた寺田は夫に報告。すると「自信あるの?」と尋ねてきた。「なければやらない」と寺田。夫は「自信家でない彼女がそこまでいうのは根拠があるのだ」と思った。

 そこから寺田は「チームあすか」結成に動きだす。コーチやトレーナー、栄養管理などの専門家を集めアドバイスをうける体制をとったのだ。

「当時はそれらを監督やコーチ一人がやりくりするのが一般的でした。それではキャパオーバーになってクオリティーが下がる気がしていました」

 こうしたチーム制は陸上選手としては当時かなり新しかったが、これはラグビーから学んだ。寺田自身、集団で取り組むのが好きだし合理的だということにラグビーを通して気づいたのだ。

 練習も過去にこだわらない方針が立てられた。昔の寺田に戻すのではなく、「新しいハードラー・寺田明日香をつくる」という方向性を寺田自身が示した。また、東京オリンピックを視野には入れていたが、コーチの高野は試合日程から逆算して練習内容を決めないようにした。徹底的に技術的な課題を洗い出し、関連する筋肉、関節の柔軟性を最適な状態にするなど土台を積み上げた。地味な練習のようだが、寺田は楽しかった。

「23歳までの自分とは違って純粋に陸上が好きで好奇心が強くなっていたので、この練習をしたら自分がどうなるかとか、1本走ってどう感じたか、それをコーチに伝えて、次はどう走るか……みたいにアイデアがぐるぐる頭の中にわいてきて、わくわくしていた。練習の質も高くなりました」

 練習をする中で発見があった。引退前はあったハードルへの恐怖感がないのだ。ハードルはタックルしてこない。タックルで吹っ飛ばされた経験がハードルの怖さを蹴散らしてくれたのだ。

 19年4月、復帰レースに出場。緊張ぎみで13秒43だったが、レースのたびにタイムはよくなった。高野は「できる時はとんとんと全部うまく運ぶからそれを待っていた」というが、その時が訪れたのは8月。金沢イボンヌの日本記録13秒00に並び、翌9月には12秒97と日本人初の12秒台をマークした。(西所正道)

暮らしとモノ班 for promotion
大谷翔平選手の好感度の高さに企業もメロメロ!どんな企業と契約している?